明治の方が進んでいた? 後藤新平の感染症対策に学ぶ海堂尊の死ぬまで生きる(7)「日清戦争後のコレラ検疫」について

相変わらずコロナ禍では、政権や行政は失態をさらしています。国民の大多数が批判している「Go to トラベル」実施にあたり、新型コロナウイルス対策分科会の尾身茂会長が、事業開始判断を先延ばしするよう政府に進言したものの拒否されたとのこと。専門家の医師の意見を、政治家が経済優先で拒否したのですから、以後の感染拡大は現政権による人災と認定されるでしょう。

しかも感染状況を四段階で判定するとしながら、具体的な数値での判断基準は決めていない。現政権と医療行政の無為無策ここに極まれり、です。

医療現場からも抗議の声が上がっています。「法改正し保証と休業要請を」という、尾崎治夫・東京都医師会会長の提言は医療現場から発すべき、当然のメッセージです。

日本は公衆衛生や国民の健康について、これほど軽視するような国家だったのかというと、そんなことはありません。日本を欧米諸国と伍(ご)する国家にしようと明治の元勲や医学者たちは努力し、日本の衛生を世界トップクラスに引き上げた、輝かしい時代があったのです。長与専斎が初代局長を勤めた、内務省衛生局を中心に打ち立てられたものでした。

内務省衛生局は現在の厚生労働省の前身です。

長与専斎の次の衛生局長、「大風呂敷」こと後藤新平の活躍は刮目(かつもく)すべきものでした。後藤新平は岩手県の水沢出身で明治初頭、愛知県病院を日本屈指の病院に築き上げ、長与専斎に抜てきされ内務省衛生局に就職します。同僚に北里柴三郎博士もいました。

相馬事件に連座し獄に下りましたが、冤罪(えんざい)でした。衛生局長も辞したのですが復帰直後、陸軍軍医の石黒忠悳に日清戦争後検疫の責任者に任命されます。当時、清国ではコレラが流行していました。日本にコレラを入れてはならないと後藤は考えます。しかし日清戦争に勝利して凱旋、意気上がる軍人を検疫で留め置くのは非常に困難な事業です。

後藤新平は臨時陸軍検疫部部長の陸軍次官(当時)児玉源太郎の知遇を得て、検疫を全権委任されます。突貫工事で瀬戸内海の小島三つを検疫所として設置、三ヵ月で戦争帰国者全二十三万二千人の検疫という、空前絶後の難事業をやり遂げるのです。大任を受けるにあたり、陸軍に事務官長という文民のポジションを作ってもらい、口出しを極力避けるという条件を出しています。この地位は検疫終了事に廃止されました。後藤新平一代限りの地位でした。

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