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「たれにはまだ伸びしろがある」と清水憲一・商品開発部長はみる

「たれにはまだ伸びしろがある」と清水憲一・商品開発部長はみる

エバラ食品工業が「家庭でも焼き肉を」という発想から商品化し、ロングセラーとなった「焼肉のたれ」。1968年に発売すると、関東・東海圏から徐々に全国へ人気が広がった。しかし、最後まで攻めあぐねていたのが関西圏だったという。関西攻略の突破口を探っていたエバラが78年に送り出したのが今なお看板商品であり続ける「黄金の味」だ。

<<(上)「家庭で焼き肉」の文化広めた エバラ「黄金の味」

エバラ食品は精肉店を販売チャネルとして「焼肉のたれ」のファンを広げていった。地域のスーパーなどとも組んで、75年ごろまでには全国へ販売網を広げるに至った。だが、「唯一、苦戦したのが大阪を中心とする関西エリアでした」と、エバラ食品の清水憲一・商品開発部長は当時の状況を説明する。

「食品業界だけではないかもしれませんが、『東京のものは下らない』といわれて、大阪・京都を中心とする関西の方面ではなかなか浸透しないというジンクスがありました。エリアごとに販売戦術を強化して、各地で成功してきたエバラでしたが、当社が関西エリアで売り始めたころには、既に他社も類似商品を売り出していて、『エバラは後発』と誤解されていました。関東風の塩分が濃い味付けも、甘さを求める関西では障害になったようです」

厚い関西の壁、甘みと高級感で切り崩し目指す

昔から関西圏では「江戸の商品は、京都のモノより品質が劣る」とみなされがちだったという。しょうゆベースで塩分が強めの「焼肉のたれ」は、関西地区で先行した他社商品に売り上げの面で届かず、相当な量のテレビCMを投下しても攻めきれなかった。

「創業者の故・森村国夫には悔しさもあったでしょう。しかし、77年になって『時代も変わっている。付加価値を高めて、根本的に商品を見直そう』と新製品開発の号令をかけたのです」と清水部長は振り返る。もちろん、「関西エリアで受ける味」という明確な目標もあった。しかし、焼き肉が徐々に普及しつつあった60年代に比べると、経済を取り巻く環境や時代が大きく変わっていた。

戦後日本の高度経済成長を受けて、70年代には公務員やサラリーマンの所得水準が大幅に向上していた。60年代の消費者には「肉をたくさん食べられればいい」という意識が強かったが、収入が増えていくうちに「量より質を」という好みに変わってきていた。

畜産業を巡る環境も様変わりする時期にあたっていた。食肉加工の飛躍的な技術と衛生面での改善とともに、冷凍・冷蔵での保管技術が進歩。食肉を冷たいまま輸送するコールドチェーンも広がるなど、物流や流通システム面でも大きな進展がみられた時期だ。

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