不登校新聞編集長 「SOS」そっと見守る母の葛藤
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は不登校新聞編集長の石井志昂さんだ。
――学校好きの小学生が中学で不登校になりました。
「中2の冬、学校に行けなくなりました。背後にあるのは中学受験での挫折体験です。スパルタ塾でプレッシャーをかけられた末に第6志望まで全落ちし、絶望感の中で公立中学に進みました。親の期待に応えられなかった、と苦しみましたし、中学ではいじめも受けました」
――どう両親に伝えたのでしょうか。
「ある朝突然、目の前が揺れるような感覚に陥り、『学校に行けない』と母に言いました。苦しいと考えてはいけない、と無意識に気持ちに蓋をしていたのですが、いったん『行けない』と口にすると涙が止まらなくなりました」
――お母さんの反応は。
「『分かった』と言い、放っておいてくれました。『何で?』『何があったの?』と追及されていたら、僕は危なかったかもしれません。当時の僕にとって死は身近にあり、崖っぷちからのSOSを感じ取ったのだと思います」
――聞きたい思いをのみ込み見守ってくれたのですね。
「はい。ただ不登校は短期的なもので、また中学に行くだろうと考えていたようです。実際、僕はそのあと学校には戻らず、フリースクールに通って不登校新聞に出合い、そのまま就職することになるのですが、母なりに葛藤はあったようでした」
――どんな葛藤ですか。
「大検を勧めてくるなど、いつか"普通"のレールに戻ってほしいという気持ちです。私が18歳のとき、母が珍しく泥酔して、難産の末、私が生まれたときのことを話し出しました。『この子が幸せになればいい、と思ったのに、自分のことのように期待してしまった』と。僕の同級生が大学に進学する年齢になり、ようやく現実に折り合いを付けたのだと思います」
――お父さんはどんな方でしたか。
「父は無口な人でしたが、いつも見守ってくれました。不登校になった直後、学校を思い出してしまう僕が家中の時計の電池を外したときも、黙って腕時計で生活をしてくれました。『今のままじゃだめだ』などと言われたことは一度もありません。今、多くの不登校児の親と話す機会がありますが、なかなかできることではないと思います」
――不登校の経験があって、今の石井さんのキャリアがあります。両親はどう振り返っていますか。
「母は僕が出ているメディアなどはほとんど見ないようです。以前『不登校の経験を話すとき親の話に触れざるを得ないから、見ないでほしい』と伝えたことを守っているのだと思います。不登校のときのことを聞いても『済んだことなので、お答えできません』という"答弁"が返ってきます。本当に忘れているのか……理由は分かりません」
[日本経済新聞夕刊2020年7月28日付]
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