その距離でタクシー使う? 運転手が考えた大人の事情鉛筆画家 安住孝史氏

近いと思ったら遠かった、という思い出もあります。やはり夜の銀座で乗ってきた男性のお客様ですが、行く先は「霞ケ関」。僕が官庁街に向かって走り出すと「高速に入って」との指示です。「おや」と僕が戸惑っているのをみて、男性はいたずらっぽく「川越だよ」とおっしゃしました。

川越市の「時の鐘」(画・安住孝史氏)

聞くと東武東上線の川越駅(埼玉県川越市)から少し先にも「霞ケ関」があるとのこと。僕はそれまで知らずにいたので勉強になりました。お客様は運転手の驚く様子を見たくて、いつも最初に霞ケ関と言っているようでした。

まったく理由がわからなかったのは、着け待ちしていたJR西日暮里駅から「東十条」と言って乗ってきた中年男性の場合です。「東十条のどの辺ですか」と尋ねると「駅」とのこと。京浜東北線なら西日暮里から東十条まで乗り換えなしで10分くらいです。タクシーを走らせますと、本当に東十条の駅前で「ここでいい」と降りていかれました。電車の方がはるかに安く、しかも速いのになぜだろうと、これは今も謎のままです。

タクシーというと、時間を節約してラクに移動するための手段ということがまず思い浮かぶと思います。それと全く矛盾する使い方もあるのですから、面白いですね。

父の日の寄り道

タクシーは寄り道しながら目的地に向かう乗り物としては実に便利です。利用法としてはありきたりですが、ちょっと忘れられない寄り道のことを思い出しました。

6月の第3日曜は「父の日」です。20年近く昔のことですが、この日に根津と千駄木の間あたりの不忍通りで「観音裏まで」と若い女性が乗ってきました。観音裏は「雷門」で知られる浅草寺の北側エリアです。走り出してしばらくすると「途中に洋菓子店があるので、そこで少し止まっていてください」とのこと。父の日なので父親にケーキを贈りたいということでした。

なんだか僕もうれしい気持ちになって、お店の前で車を止めました。ほどなくして女性は「お待ちどおさま」と戻ってきました。そして「はい」と言って、僕に小さな箱を差し出します。ケーキの入った箱だと直感しました。びっくりして「いいのですか」と聞きますと「どうぞ」と笑顔です。お父様のためのケーキのほかに、僕にまで用意してくれたのです。

感謝してお客様を降ろしますと、いつも浅草の休憩場所にしている隅田川沿いの通りに向かいました。早く箱を開けたかったからです。途中で缶コーヒーも買いました。箱にはチョコレートケーキが入っていましたが、その美味(おい)しさは、ちょっと涙が出るくらいでした。

人生は悲しいこと、苦しいことが全体の6割、あるいはもっと多いかもしれないと思っていますが、それでも、時として素晴らしいことに出逢(あ)うことがあります。ほんの小さな出来事だとしても、その一粒の恵みが、人生を明るく、愛(いと)おしいものにしてくれる。そんなふうに感じています。

安住孝史
1937年(昭和12年)東京生まれ。画家を志し、大学の建築科を中退。70年に初個展。消しゴムを使わない独自の技法で鉛筆画を描き続ける。タクシー運転手は通算20年余り務め、2016年に運転免許を返納した。児童を含めた芸術活動を支援する悠美会国際美術展(東京・中央)の理事も務める。画文集に「東京 夜の町角」(河出書房新社)、「東京・昭和のおもかげ」(日貿出版社)など。

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