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「鶏鳴狗盗(けいめいくとう)」(書・吉岡和夫)

「鶏鳴狗盗(けいめいくとう)」(書・吉岡和夫)

中国・前漢時代の歴史家、司馬遷(紀元前145年ごろ~同86年ごろ)が書き残した「史記」は、皇帝から庶民まで多様な人物による処世のエピソードに満ちています。銀行マン時代にその魅力にとりつかれ、130巻、総字数52万を超す原文を毛筆で繰り返し書き写してきた書家、吉岡和夫さん(81)は、史記を「人間学の宝庫」と呼びます。定年退職後も長く研究を続けてきた吉岡さんに、現代に通じるエピソードをひもといてもらいます。(前回の記事は「ホンモノの策士は危険 史記が語る『舌先三寸の男』」

夜をこめて鳥のそら音(ね)ははかるともよに逢坂(あふさか)の関はゆるさじ

「夜が明けぬのに、ニワトリの鳴きまねで門を開けさせようとしたって、そんなことは逢坂の関は許しません」。百人一首にある清少納言の作で、言い寄る男性を女性が拒む歌です。ここには史記「孟嘗君(もうしょうくん)列伝」のエピソードが織り込まれています。今回はこの孟嘗君を取り上げ、リーダーの器量について考えたいと思います。

中国・戦国時代には「戦国四君(しくん)」と呼ばれる4人の大親分がいました。いずれも「食客(しょっかく)三千人」、つまり客人として遇するたくさんの居候を抱えた有力者です。中でも最も後世に親しまれたのが孟嘗君でしょう。孟嘗君は諡(おくりな、死後の称号)で、姓名は田文(でんぶん)です。

 孟嘗君の父は斉(せい)の王族でしたが母は正妻ではありません。しかも「5月5日に誕生した子は成長して父母に害を及ぼす」との迷信があった当時、まさにその日に生まれました。父は母に「殺せ」と命じますが、母はひそかに育てます。
 大きくなった孟嘗君と面会した父は母を責めました。「この子を殺せと言った。養育したのはなぜか」。孟嘗君は母に代わって「5月5日生まれを育てないのはなぜでしょうか」と問い返し、父が先の迷信を口にすると、命は迷信ではなく天から受けるものだと逆に父をやり込めます。
 また別の日、孟嘗君から父に「子の子は何ですか」と問いかけます。父が「孫だ」と答えると、「では孫の孫は」と聞き、父が「玄孫だ」と言うと、さらにたたみかけました。
  玄孫の孫を何と為(な)す。
 玄孫の孫は何と呼びますか――。これに父が「知らない」と返答すると、孟嘗君は訴えます。「あなたは斉の宰相で富貴を極めていますが、門下には一人の賢者も見当たりません」。そして「ため込んだ財産を、呼び方も知らない子孫に残そうとして、国に損害を与えていることを忘れているのではありませんか」。実に手厳しいひと言ですが、これを聞いた父は孟嘗君を認め、家事を仕切らせ、客との応接も任せます。すると日ごとに客が増え、孟嘗君の評判が高まり、父は周囲に薦められるままに彼を跡継ぎに定めます。

何より偉かったのは孟嘗君の母です。司馬遷はあえて書いていないと思うのですが、国の宰相を務めるような夫が「殺せ」と命じた子を育てる苦労は尋常ではなかったでしょう。周囲に大事にしてもらえなければ、子の存在を隠せるはずもないからです。憎まれぬよう、恨まれぬよう、細心の注意、気配りを欠かさず、すべての人に尽くしたのではないでしょうか。それが密告からわが子を守るすべでした。

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