頂上をひたすら目指していた時は
見えなかった景色を楽しむ余裕が
下山の時代にはある

――先の見えない不安な時代を生き抜く上で意識すべきことは。

5~6年前に、『下山の思想』という本を書きました。登山で例えると、日本は高度成長期を経て経済大国への道をひた走っていた「登り」の時代を終えて、「下山の時代」に入ったのではないか、と指摘したのです。

日本では「下りる」とか「下る」ということに負の感覚を持つ人が多いのですが、僕が言いたかったのは登山が良くて、下山が悪いということではありません。むしろ逆で、必死に頂上を目指している登山中とは違い、下山中は遠くの景色を見たり、高山植物を楽しんだりする余裕がある。登山中には味わえなかった充実感や喜びを得ることができるのです。

もちろん下山にもリスクがあるので、足元をしっかりと確認しながら、つまずかないように注意して、自分のペースで下りていくことが大切です。それができれば、いわば円熟した、豊穣(ほうじょう)なる下山をすることができる。今の日本に必要なのは、下山の思想で、成熟国としていかに実りある豊かな社会をつくるかという発想だと思います。

――長い人生をどう生きるかを考える上でも示唆的です。

昔なら50代、今の時代でいえば70~80代ぐらいが下山の時代でしょうか。自分の来し方行く末をゆっくり考えたり、昔を懐かしんだりと回想することで、これまで親や先輩、友人から相続してきた多くのものに気付くことができる時期だと思います。

年を重ねても精神的な豊かさを持って生きるために、回想力はとても重要です。さらに言えば、回想するだけでなく、それを異なる世代に向けて積極的に語ってほしい。ただし、毎回同じ話ではだめです。昔話が単なる自慢や自己満足で終わらないよう、若い人が興味を持ってくれるように話を工夫すること。単なる自分語りではなく、その時の社会の状況が分かるような事実を生き生きと伝えることが大事です。記憶を語り継ぐには、語る側の努力が欠かせません。

今、自分の記憶を語り継ぐ相手がいる方はぜひ、自分の歩んできた道について、できるだけたくさん話をしてください。自分にとって大切な記憶や思い出を、次世代の人たちの心に届くように伝える。それが、こころの相続なのだと思います。

『こころの相続』
五木寛之著/860円(税別)/SBクリエイティブ/7月7日発売
 人から人へ、時代を超えて受け継がれるものは、財産や土地といった「形あるもの」だけではない。話し方、立ち居振る舞い、考え方や価値観、そして文化まで、形なきものを親から子へ、先人から後進へと引き継いでいくという「無形の相続」の大切さを、日本社会はないがしろにしてきたのではないか──。昭和、平成、令和の3つの時代にわたり日本社会の変遷を独自の視点から見据えてきた著者が、人々の記憶や地域社会に伝わる文化や風習を次世代につなぐためのいとなみの重要性を指摘。目に見えないが大切な価値を次世代につなぐ「こころの相続」を意識して生きることの大切さを説く。
いつき・ひろゆき
 1932年福岡県生まれ。幼少期に朝鮮半島に渡り、終戦後引き揚げる。早稲田大学中退後、記者、ルポライターなどを経て66年『さらばモスクワ愚連隊』でデビュー。『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞、『青春の門』で吉川英治文学賞、長編小説『親鸞』で毎日出版文化賞特別賞を受賞。対談、紀行文など幅広いジャンルで執筆活動を続ける。最新刊は『こころの相続』。

撮影/工藤朋子 取材・文/佐藤珠希

[日経マネー2020年6月号の記事を再構成]

こころの相続 (SB新書)

著者 : 五木寛之
出版 : SBクリエイティブ
価格 : ¥946 (税込み)

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