たまたま乗せた客が顔見知り その時タクシー運転手は鉛筆画家 安住孝史氏

夜の新橋駅西口(画・安住孝史氏)
夜のタクシー運転手はさまざまな大人たちに出会います。鉛筆画家の安住孝史(やすずみ・たかし)さん(82)も、そんな運転手のひとりでした。バックミラー越しのちょっとした仕草(しぐさ)や言葉をめぐる体験を、独自の画法で描いた風景とともに書き起こしてもらいます。(前回の記事は「このトンネル本当に入る? タクシー、都心のびっくり」

新型コロナウイルスの影響で外出がままならず、部屋の中で人生を振り返ることが増えました。大正時代に大流行した「スペイン風邪」の恐ろしさを経験者から聞いて育った世代ですから、ニュースをみながらことさら死を身近に感じました。改めて自分が年をとっていることに気づくのです。そんなとき、タクシー運転手時代の出会いのあれこれを思い出すと気が紛れます。

いわゆる「流し」のタクシー運転手が、大きな街で偶然に顔見知りを乗せるケースは、ほとんどありません。おおよそ4万5000台のタクシーが走り、23区だけで1000万人近くが住んでいる東京都内では、その確率は本当に低いと思います。以前お乗せしたことのある方が再び乗車したとしても、互いに気づかぬままということになっているのかもしれません。

「虎ノ門までタック・ソ・ミッケ」

もう40年以上も前のことですが、その珍しいことが起きました。覚えているのは、お客様がいかにもジェントルマンという感じの背の高い外国人だったからです。30代の前半くらいだったでしょうか。神田美土代町(東京・千代田)で呼びとめられ「虎ノ門の先まで」と日本語で指示を受けました。とても流暢(りゅうちょう)な話しぶりでしたから「日本語がとてもお上手ですね。お国はどちらからですか」と尋ねますと「スウェーデンです」とおっしゃいます。

その数年前になりますが、僕はスウェーデンの首都ストックホルムに立ち寄ったことがありました。シベリア回りでパリに向かう旅の途中です。モスクワ、ヘルシンキを過ぎ、コペンハーゲンに行く手前でした。出発前に絵描きの先輩から「行く先々の国では現地語でお礼を言うように」「パリでは絶対、英語でお礼を言うな。嫌われる」などとアドバイスを受け、実際にその通りにしてよかったと記憶していました。

乗車したお客様からスウェーデンと聞いて、懐かしく感じましたが、スウェーデン語の「ありがとう」がすぐに思い出せません。そこで「スウェーデンで『ありがとう』は何と言うのですか」と尋ねますと「タキソミュケ」と、当たり前ですが流暢な発音でおっしゃいました。

その瞬間に「タック・ソ・ミッケ」というカタカナで覚えた言葉が頭によみがえりました。それで降車の際に「タック・ソ・ミッケ」と申しますと、お客様は「ありがとう」と丁寧な日本語を返してくれました。とても印象深い出来事でした。

その日から1週間後くらいだったと思います。神田周辺を流していたら、なんとあのスウェーデンの紳士に呼びとめられたのです。お乗せするとやはり「虎ノ門の先まで」。これは同じ方に間違いないと思いましたから、僕は走り出す前に「はい! 虎ノ門までタック・ソ・ミッケ」と返事しました。お客様はびっくりしたというより、緊張して体を硬くし、息を飲むような感じです。異国の街で、たまたま乗ったタクシーの運転手から、母国語でお礼を言われたのですから無理もありません。

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