渡河の決断

要するに、元老院がカエサルを追い込んだといってよい。ローマの法に従い、将軍としての野心も政治家としての野望も捨て、死刑を宣告されるかもしれない裁きに身を委ねるか、それとも、配下の兵が自分の命令に従い、まだ忠誠を示してくれるうちに、戦って血路を開くか――ルビコン川の堤に立つカエサルが迫られていたのは、明らかにこの二者択一だった。もっとも、一個軍団を引き連れてきたところからして、カエサルの腹は最初から決まっていたようにもみえる。

カエサルはその著書『内乱記』のなかで、ルビコン川を越えたことには触れてさえいない。彼はただ、「ポンペイウスと元老院から不当な扱いを受けたため、第13軍団をガリア・キサルピナのラベンナからイタリアのリミニに進軍させた」とだけ記している。ルビコン渡河をあえて伏せることによって、もしかしたらカエサルは、自分が(軍団を率いてイタリア入りすることで)ローマの法を破ったという事実を──たとえ、同時代人には明々白々だったとしても──認めまいとしたのかもしれない。『内乱記』は、一連の出来事を正確に書き表そうとする試みというよりは、自己正当化のためのものという色合いが濃い。カエサルは、自分をローマに盾突く反乱軍のリーダーではなく、ポンペイウスによる独裁支配からローマを解放する英雄として描いているからだ。

カエサルの怒り ベネチアの画家アントニオ・ペッレグリーニ(1675~1741年)作『カエサルに差し出されたポンペイウスの首』(credit: Giovanni Antonio Pellegrini)

カエサル率いる一個軍団6000の兵がローマに向かって進軍するなか、ポンペイウスははるかに大きな兵力を有しているにもかかわらず、都を放棄してイタリア南部まで撤退することを決める。カエサルが追撃すると、ポンペイウスは再び戦いを避け、さらにギリシャまで逃れる。これを追う前に、カエサルは腹心のマルクス・アントニウスにローマを任せ、ポンペイウスが別の兵力を配備しているスペインに駒を進める。スペインのポンペイウス軍を鎮定して後顧の憂いをなくした後、カエサルはギリシャに入り、何度かの合戦を経て、紀元前48年、ファルサルスの戦いで決定的勝利を得る。ポンペイウスはカエサルの追撃をなんとかかわし、エジプトに逃れるが、そこで若年のファラオ、プトレマイオス13世の命を受けた刺客に殺された。

凱旋と暗殺

ポンペイウスの死によって、内戦はほぼ終息した。カエサルはなおも抵抗を続けるごく小数の残党を手早く片づけ、投降する者たちにはゆるしを与えた。紀元前46年、ローマに帰還し、今度は凱旋将軍としてしかるべき祝福を受けた。その後はローマの独裁官(ディクタトル)となるが、その任期は10年と、従来は非常時に限って必要と考えられていた役職の任期としては、前例がないほど長かった。この新たな権力を使い、カエサルは首都ローマと帝国全土の行政に改革の大なたを振るう。そして紀元前44年の初頭、ついに終身独裁官となり、事実上の王となった。

1人の人間がそれほど強大な権力を持つことに反発する者たちは、当然ながら少なくなかった。カエサルの友人マルクス・ユニウス・ブルートゥスを含む60名の元老院議員から成るグループが、カエサル暗殺の謀議を巡らし始める。運命の3月15日、カエサルは元老院で、このはかりごとに加わった大勢の議員たちの手で刺し殺された。下手人のなかには、ブルートゥスの姿もあった。ちなみに、カエサルがいまわの際に何か言い残したとしても、当時の記録には残っていない。「ブルートゥス、お前もか」という有名なセリフは、シェイクスピアによる創作である。

カエサルの遺産は、妹の孫で養子でもある18歳のオクタビアヌスが受け継いだ。この青年は、養父の死後に続発した内乱で、非情さと狡猾(こうかつ)さを見せつける。やがて、紀元前31年、宿敵マルクス・アントニウスをアクティウムの海戦で破ると、アウグストゥス・カエサルの名でローマ史上初めての皇帝になり、帝政が始まる。

ルビコン川を渡ったとき、カエサルがローマの最高指導者になろうとしていたかどうかを知るすべはない。ポンペイウスを倒したことで強大な力を手にしたのは確かだが、その力をどうしたら最も有効に活用できるかという悩みは最後まで消えなかった。1つだけ確かなのは、ルビコン渡河によって、カエサルは帝政ローマの成立に至る一連の出来事の口火を切ったということだ。このとき生まれたローマ帝国は、さまざまに形を変えながらも、以後1500年もの長きにわたって命脈を保つことになる。

(文 ビル・プライス、訳 定木 大介、吉田 旬子、日経ナショナル ジオグラフィック社)

[ナショナル ジオグラフィック 2020年5月24日付の記事を再構成]