世界水準の栄養疫学者ができるまで 幅広い応用も視野ケンブリッジ大学 医学部上級研究員 今村文昭(5)

2020/6/8

「研究室」に行ってみた。

ナショナルジオグラフィック日本版

今村さんが所属するケンブリッジ大学MRC疫学ユニットがあるアッデンブルック病院。
文筆家・川端裕人氏がナショナル ジオグラフィック日本版サイトで連載中の「『研究室』に行ってみた。」は、知の最先端をゆく人物の知見にふれる人気コラムです。今回転載するシリーズのテーマは、食べ物の効果や影響を考え、その要因や対策を追究する「栄養疫学」。同じ「よくわからない」という結論でも、その根拠の深さに大きな差があること、そして情報をうのみにする怖さを教えてくれます。未知のウイルスに向き合うときのヒントにもなるかもしれません。研究者の濁りのない目がみつめる先にも注目です。

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今村さんは、どのようにして今の研究にたどり着いたのだろうか。そもそも、いつどこで疫学に出会ったのかというレベルで、ぼくには興味深い。日本ではメジャーな研究分野ではないから、大学受験の時点で「疫学をやりたい」と考えている学生はきわめて稀だろう。また、そういう学生を指導できる日本の大学は学部レベルではほとんどない。

今村さんも大学入試の時点では「疫学」とは接点がなく、とにかく基礎科学がとても大事だという思いから、まずは上智大学理工学部で化学を学んだ。企業の研究者で海外での研究歴もある父親の影響もあり、学部一年生の頃からすでに大学院留学を意識していたという。「学部時代に環境学や生命倫理学の講義にも関心を持って、レイチェル・カーソンの本も読みました。単に科学だけをやっていてもどうしようもない分野で、学際的なことをやりたいと思いました。じゃあ、どんな分野があるのかと図書館や新宿南口の紀伊国屋書店に通って調べたところ、北米には公衆衛生大学院(School of Public Health)というのがあって、これは日本に必要なものだと思ったんです。それで公衆衛生学について調べていくと、栄養学も面白そうだし大切だとも分かって、いろいろ出願した結果、結局、留学先はコロンビア大学医学部の栄養学のコースになりました」

さらっと言うが、日本の学生がいきなり北米の大学の大学院に飛び込むには、準備も覚悟も必要だ。行った先でも絶えざる努力が要求されるのは言うまでもないので、ここでは詳述せずに先に進む(今村さんの留学経験は公衆衛生大学院(MPH)に関心がある人に向けた『MPH留学へのパスポート 世界を目指すヘルスプロフェッション』(はる書房)という書籍に掲載された文章でも読める)。

コロンビア大学の栄養学修士課程では、栄養化学、臨床栄養、国際栄養といった様々な分野を学びながら、冬休みには公衆衛生学の研究室が運営していたバングラデシュの疫学調査(井戸水に含まれるヒ素の影響を見る疫学)に出た。これは、今村さんがはじめて体験する疫学研究の現場だった。飲水の中のヒ素の影響を探るので、ジャンルとしては環境疫学であり、栄養疫学ともいえる。いずれにしても、人の健康にかかわる因子をさぐり疾病を予防するための研究だ。

「大学の講義でも疫学に出会いました。基礎科学と応用科学を結びつける役割を果たす学問だという点が魅力的で、自分の目指すべき領域はこれだと思いました。臨床医学、国際栄養や公衆衛生といった分野でも、根幹にあるのは疫学なんです。それで、ボストンのタフツ大学栄養疫学プログラムの博士課程に進学することにしました」

疫学は、エビデンスを見出す学問だ。さまざまな応用科学の分野に「根拠」(エビデンス)を与えるための道具を持っている。前にも述べた通り、科学的な根拠に基づいた医療、いわゆるEBM(Evidence Based Medicine)のエビデンスも、多くの場合、疫学者の力もあって確立してきた。

そして、栄養学は、栄養疫学の研究によって確立されたエビデンスを参照して、個々人に助言したり、食事のガイドラインを作ったりする。栄養学の根っこのひとつに栄養疫学がある。日本では栄養学の研究者や、栄養士、管理栄養士のような実務家がたくさんいる反面、栄養疫学者はとても少ないので、こういったことが認識されていないように思う。

今村さんが進学したタフツ大学はマサチューセッツ州ボストンにある名門で、近隣にはボストン大学やハーバード大学など現代疫学の中心地とされる研究拠点もある。目下、疫学の最良の教科書とされている"Modern Epidemiology"の著者ケネス・ロスマンは、ボストン大学の教授だ。こういう地の利を活かして、理論・方法に強い研究者になるという決心をしたのは博士研究の1年目が終わった頃だったそうだ。

「夏休みの4カ月のうちに、グアテマラにある栄養学の研究施設で仕事をさせてもらいました。バングラデシュの経験もありますし、発展途上国に貢献したいという気持ちが強くなりました。でも、そのためには世界のどの国に行っても揺るがない基礎を身につけなければと思い、ボストンにいるからにはきちんと理論的な部分を突き詰めて基礎を作ろうと決心したんです。それで、タフツ大学で栄養疫学を学びながら、ボストン大学で疫学・生物統計学を学べるように博士研究のテーマを組み替えました」