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尾堂真一・日本特殊陶業会長

尾堂真一・日本特殊陶業会長

自動車のエンジン向け点火プラグで世界トップシェアとして知られる日本特殊陶業。名古屋市に本社を置く同社だが、尾堂真一会長は鹿児島県の出身。地元の名門校・鹿児島大学教育学部付属小学校、中学校(いずれも鹿児島市)で学んだ。自由な校風の下で、のびのびと友情を育んだ日々が経営者としての思考の軸になっていると尾堂会長は語る。

小学校入学は1961年(昭和36年)。当時の鹿児島では珍しく、小学校受験をした。

私は鹿児島市内の家具屋の家に生まれました。当時は高度経済成長の真っただ中。食器棚や机、いすなど何でも作って売っていました。家には両親と2人の姉に加えて、住み込みの職人さんも。大勢の大人に囲まれて毎日にぎやかな幼少期を送っていました。物おじしない性格はこういった環境によるものかもしれません。

鹿児島大学教育学部付属校は、鹿児島県内では珍しい小学校受験のある学校でした。なぜ付属小学校を選んだのかはよく覚えていないのですが、親戚も同じ学校に入っていたので、彼らへの憧れが入学のきっかけだったと思います。

国立の学校だったので、小学校なのに受験がありました。筆記試験を終えた後、先生たちによる面接を受けます。しかし、最終的にはくじ引きで合否が決まります。教育学部付属の学校ですから、学力にとらわれないさまざまな子どものデータをとりたいという狙いがあったのかもしれません。先生に促され、たくさんの封筒から1つを選びました。私が選んだ封筒の中に合格を示す紙を見つけた母の顔のうれしそうな顔が忘れられません。

鹿児島大付属校は小中一貫校でした。高校も県内の学校に通いましたが、私の母校といえば9年間通った付属校になるのだろうなと思います。1クラス40人程度で1学年5クラスありました。ラ・サールなど他の中学を受験すると付属中には進学できないシステムでした。なので、ほとんどの同級生が中学校に進みます。なので小学校の仲間とは9年間一緒に過ごすことになります。

時代のせいもあるでしょうが、自由な先生が多かったことが印象的です。家庭訪問のとき、ある先生は鹿児島の名物・芋焼酎を飲みながら親と話していましたね。公私ともに家庭に関わっていました。

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