宮沢ミシェルさん 日仏のギャップで育まれたもの
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回はサッカー解説者の宮沢ミシェルさんだ。
――クロマティック・アコーディオン奏者だったフランス人のお父さんはユニークな人だったようですね。
「フランスでイブ・モンタンの伴奏もしていた父が来日したのは1956年。二十数カ国を回るツアー中に日本で母と知り合い、結婚してそのまま東京に住み着きました。デデ・モンマルトルという芸名で日本のシャンソンブームに火をつけ、引っ張りだこになり、羽振りのいい生活を送っていたらしいです」
「それが突然、母の猛反対を押し切って千葉の山奥に引っ越して。農作業や釣りにいそしみ、家の中にはペットの犬や猫や小鳥が飛び交うアウトドア派に転じました。生きものの生と死にじかに触れる環境が、感受性を高めてくれたのは確かです。そんな父が仕事のときだけ東京に出て、テレビに現れるのが子供心に不思議でもありました」
「父にすれば当たり前ですが、僕の友達が家に遊びに来るとハグやキスをするのは本当に困りました。サッカーを見に来ると『faineant(怠け者)』なんてヤジを飛ばすなど愛情や感情を素直に表すことは、少しも恥ずかしくないことだと理解するのはずっと後でしたから」
――父と母の教え、日仏のギャップの中から育まれたものがあるようですね。
「兄が日本語がうまく話せず、いじめに遭ったせいか、母は僕には日本語と日本の常識を懸命に身につけさせようとしました。教育は母任せの父も、映画などを一緒に見ると何がどう面白かったのか、つまらなかったのか、必ずコメントを求めました」
「高校時代にフランス国籍のまま千葉県の国体代表に選ばれると、珍しさから取材が殺到しました。時間がなくてマスコミが用意したハイヤーの中で通学途中に取材を受けようとしたら、父が『生意気だ』『いつもどおり自転車で行け』と激怒して。愛情深くも厳しさが勝る人だったので、将来を考え、鼻をへし折ってくれたのだと思います」
「後年プロサッカー選手になると、どうしてサッカーだけなんだ? ワインとうまいメシを食べる以上に人生に必要なものがある? クリスマスも正月もなく、ボールを蹴って何になる? そんな説教もよくされたものです」
――長男はプロサッカー選手、長女は乃木坂46の元メンバー。血は争えませんね。
「自分の子供たちには好きなものを見つけて真剣にやれと話すくらいです。演奏家としての父は89年に69歳で亡くなる前にも名古屋で公演をするなど、生涯現役を貫きました。クルマに母と父と楽器を載せ、送り迎えをしたのは最後の親孝行になった気がします。僕の父は子供がそのまま大人になったような人だったけれど、今の僕も子供たちからすると、そんなふうに見えているのかもしれません」
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