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ケンブリッジ大学MRC疫学ユニットの今村文昭さんは、所属の名前の通り疫学者だ。栄養疫学というサブジャンルで博士号を取得し、キャリアを積み上げてきた。
まずは栄養疫学とはどんな分野なのだろう。
「その名の通り、栄養学と疫学との学際領域です。食事ですとか、それに関連する生活習慣や環境が健康とどう関係しているのか研究します。そして、臨床や予防政策に生かせる知見を生むのが大きな目標です。糖尿病の予防よりも前から、心臓の病気やがんの予防をターゲットにしてきたこともあって、メジャーな疫学領域の一つだとは思いますね」
よく「がんの予防にこんな食べ物」というような健康情報が流れることがあるが、ああいったものは基本的には栄養疫学に基づいている。基づいていない場合は、かなり怪しい情報ということになる。
ちなみに、教科書に書かれているような栄養疫学の歴史の中で、その力を示す典型的な研究成果を一つ挙げるとすればどんなものだろうと聞いてみた。
今村さんは少し考えてから、「暗いところで視力が極端に落ちる夜盲症や子どもの感染症をビタミンAの投与で防ぐことができるという研究ですかね」と答えた。
「1980年代に、ジョンズ・ホプキンス大学の公衆衛生大学院が行ったもので、本当に疫学的に話を組み立てて、ターゲットを絞って研究を行った優れた事例です。ビタミンAが必須栄養素として重要という話はもちろん第二次大戦前くらいからあったわけですが、ビタミンAが不足している人に投与して失明や感染などを予防できることを厳格な介入試験できちっと示しました。歴史を辿れば、英国海軍のビタミンCと壊血病、日本の高木兼寛によるビタミンB1と脚気(かっけ)の予防の話なども似たところがあるかもしれません。一方でこちらは、貧しい国々での疫学研究を経て、動物実験でも知見を積んで、仮説を組み立てて、その上できっちりと介入試験をしました。しかもアメリカの公衆衛生学の第一人者が、1980年代、自分が小さい頃にアジアでこうした研究を行っていたということもあって、強い印象が残っています」
ビタミンAが不足して夜盲症を患ったり、子どもが麻しんなどの感染症にかかりやすくなる問題は、発展途上国では今でも解決すべき課題だ。なんらかの形でビタミンAを摂取してもらう必要があることははっきりしているため、それに沿った戦略が立てられている。その知見をもたらした介入研究に至るまでの一連の成果は、研究者として美しさと力強さを兼ね備えた疫学研究のお手本のように見えるものらしい。関心があって読み解いてみたい人は、ご自分で探求してみるといいかもしれない。
一方で、日本の「ビタミンB1と脚気」のエピソードは、まだビタミンB1という栄養素が認識されていなかった時代に、海軍では麦飯を糧食として導入することで脚気の予防に成功したという話だ。日露戦争において、陸軍が25万人もの脚気罹患者を出した一方で、海軍は罹患をほぼ封じ込めた。主導した海軍軍医総監の高木兼寛自身は、脚気の原因を「窒素成分の不足」と考えていたようだが、それもまた印象深い。本質的な栄養素が特定されずとも、介入可能な食事の改善によって予防に成功した事例が、「日本の初期の疫学研究」としてよく言及されること自体、実用科学である疫学の性質を物語っている。
それでは、今村さんが実際に手を動かして行った研究を見ていこう。まずはコホート研究と呼ばれるタイプのものから。数千人から数十万人ほどの社会集団を10年、20年と長期間追跡し、観察し続けることで、生活習慣などと疾病の関係を見出す手法だ。
「馴染みのある食材ということで、アブラナから作る菜種油の一種、キャノーラオイルの話をしましょうか。ハーバードのポスドク時代に研究して、ケンブリッジに来る直前に論文になったものです。キャノーラオイルって日本でも普及していますけど、あれは菜種油に多く含まれているエルカ酸という成分が少ない特別な品種から作ったものなんです。エルカ酸は、心臓を傷つける毒性があるのではないかと言われていて、それでキャノーラオイルが開発され、普及しました。でも、本当にエルカ酸が心臓に悪いのか、実は確かめられていなかったんです」