タキシードは米ニューヨーク州の別荘地、タキシード・パークが発祥の男性の礼服です。1880年代に、この地の社交会、タキシード・クラブのユニフォームとして、尻尾(テール)のない燕尾服が採用されたのです。略式礼服、テールレス・イヴニングは当時、最新流行の礼服でありました。
男性の服装、制約のなかでの知恵比べ
タキシードは別名「ブラック・タイ」と言います。黒の蝶ネクタイの着用が決まりとされているからです。これは、燕尾服の「ホワイト・タイ」の略式である、という考えからであり、格式でいうとホワイト・タイよりも一歩下がった格、それがブラック・タイということになります。
このような礼服の決まりのある中で、「オレは赤い蝶ネクタイだ」と頑張ってみても何の意味もなしません。
それよりも、黒の蝶ネクタイをいかに自分なりに結ぶか、に心を砕くことが大事な問題なのです。三島が正式の場所には正式の服装で臨んだように、男の服はすべて決まりで成り立っているものです。女の服がすべて流行りで成っているのとは対照的です。ゲームにはルールがあるから、面白いのです。服も同じことで、ルールの中での知恵比べ。ここに着こなしの真髄があるのです。そして、三島は軍服などのユニフォームに代表される、ルールや決まりのある服装の着こなしに大いなる関心を寄せていたと思われます。
ところで、三島はどのような店でタキシードを仕立てていたのでしょうか。三島にはいくつか贔屓(ひいき)の洋服店がありました。一つは、かつて赤坂にあった「細野洋服店」です。三島の奥様は同じ赤坂の「細野久」で洋服を作っていました。その弟が開いた店が「細野洋服店」だったのです。
もう一つの贔屓が「銀座メンズウェアー」。銀座の「壱番館」の隣にあった洋服店です。三島はここで黒のトレンチ・コートを仕立てています。ちなみにその頃、ファッションにうるさい伊丹十三も、この店を贔屓にしていたようです。
三島は日ごろよりダンディーを意識し、ダンディーなる存在を目指していました。彼の場合は「着る」ことによるダンディズムの表現だけでなく、文章で「書く」ダンディズムの表現も追求していたようです。こうした文章の中にも、服装の「決まり事」や「型」に深い理解と共感を抱いていた三島のファッション観が垣間見えます。

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