スポーツキャスター宮下純一さん 苦悩消した母の一言
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回はスポーツキャスターの宮下純一さんだ。
――鹿児島で暮らすご両親は対照的な性格だとか。
「百貨店勤めだった父はいわゆる九州男児。やんちゃな僕がわーわー言っても『まあ座ってみいや』と返すばかりで動じないんです。普段僕を叱る母も言うことを聞かないときには『お父さんに言うよ!』。父は最後に出てくるボスみたいな存在でしたね」
「結婚前は保健体育の先生をしていた母は3歩下がって付いていくタイプ。僕にとって何でも言える相手です。ただ、遠慮なく踏み込んでもくるので、思春期には困りましたけど。『かまうなよ!』と反発すると、『かまうなって言ったね』とご飯の用意も洗濯もしてもらえなくなったことがあって……。ひとりで生きているんじゃないと身をもって学びました」
「両親に同時に怒られた記憶はありません。内緒で練習を休んでデートに行ったとき、父には『何のために水泳をしているんだ』と諭されましたが、母はこっそりと『相手、どんな子?』。後で聞くと、役割分担はしていたみたい。僕をよく見ていて、泳がすところは泳がしてくれていた。『自分で考えて決めなさい』が両親の教えなんです」
――北京五輪はメドレーリレーでメダル、背泳ぎでは入賞。ただ大会前は苦しんだ。
「社会人になってからはパッタリと記録が伸びなくなりました。両親には『調子はいい。大丈夫』と話していたんです。でも五輪前の冬、不安に襲われて電話で母に相談しました。『代表になれるか分からない。3年前にやめておけば、今ごろ鹿児島に戻って別の人生を送れていたかもしれない』って」
「『もっと気合い入れなさい』と激励されるんだろうと思っていました。ところが母が口にしたのは『あんた、今楽しい?』。だましだましやってきたので、心にしみる言葉に思わず涙があふれました。母は続けて『あと半年もあるよ。大好きな水泳に向き合いなさい』。半年しかないと追い込まれていた僕の心がこれで吹っ切れたんです」
――五輪での活躍をご両親は喜んでくれたでしょう。
「僕は見られたい性格なのに、家族がいると力むんです。アテネの代表選考の時は観客席で父とばったり会い、気持ちが入りすぎて代表に届かなかった。でも北京は最後と決めていたので、日本選手権のチケットを初めて自分で買って両親に送りました。両親は僕に会わないよう気を付けながら見に来てくれました」
「五輪本番は個人で決勝にいけると思わず、両親のチケットも予選分しか用意していなくて慌てて確保しました。リレーは日本でテレビ観戦。帰国後に母にメダルをかけたら『お風呂にも入れんかった子だったのにね』。もともと水嫌いを克服するために始めた水泳。あのときの母の表情は心に焼き付いています」
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