硫黄島に掲げられた星条旗 ピュリツァー受賞撮影秘話
米国時間の20年5月4日、ピュリツァー賞が発表される。例年は4月の発表だが、新型コロナウイルスの影響で審査・発表が延期された。ピュリツァー賞には、ジャーナリズム、文学、作曲などの部門があり、日本では日本人受賞者もいることから写真部門がよく知られている。ここに挙げた写真も、1945年の同部門の受賞作で、「見たことがある」という人も多いだろう。今回は、その撮影の舞台裏を紹介しよう。
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1945年2月23日、日本軍が必死に守ってきた硫黄島の摺鉢山(すりばちやま)の頂に、米海兵隊が星条旗を掲げた。幸運にも、写真家のジョー・ローゼンタールはその場に居合わせ、不朽の一枚と呼ばれる写真が生まれた。数週間後、この写真は米国政府による第7回戦時国債キャンペーンのテーマとなった。この写真を絵柄に用いた切手もつくられ、写真のシーンは映画で何度も再現されている。
写真を見て米国人の誰もが思い出すのは、ワシントンD.C.からポトマック川を渡ってすぐのアーリントン国立墓地に立つ星条旗掲揚の記念碑だろう。ローゼンタールがAP通信に送った写真がそのままモチーフになっている。
この写真は、ローゼンタールがグラフレックスの大きな4x5in判カメラを、絶好のタイミングで適切な方向に構え、ファインダーものぞかずにシャッターを切って撮ったものだ。
写真はあまりに完璧だった。重要な瞬間をとらえ、兵士たちの勇気と絆が表現されており、芸術的構図の基準をほぼすべて満たしている。そのため、すべてでっち上げだったのではないかという疑いをかけられ、ローゼンタールは生涯にわたり、反論し続けることになった。
例えば、ローゼンタールが山頂に到着したのは遅かったという事実がある。だが、それが撮影の好機を生んだ。
ローゼンタールが標高170メートルの摺鉢山に登頂したとき、海兵隊員たちはすでに小さな星条旗を掲揚していたのだ。従軍写真家のルイス・ロウェリー二等軍曹は、この瞬間を撮影しているが、山頂に突如現れた星条旗を見た日本軍は一斉に銃弾を浴びせた。弾をよけようと伏せたとき、ロウェリーのカメラは壊れてしまった。そこで、ロウェリーは新しいカメラを取りに下山した。このとき、ロウェリーは必死に山頂を目指すローゼンタールとすれ違った。「星条旗はもう掲げられたよ」と、ロウェリーは、ローゼンタールに悪い知らせを伝えた。
それでも、いい写真が撮れるかもしれないと考えたローゼンタールは山頂を目指した。ローゼンタールが頂にたどり着いたとき、ちょうど海兵隊員たちは2つ目の大きな旗を準備していた。島のどこからでも星条旗が見えるように、海兵隊の幹部が望んだからだ。
一般に、従軍写真家に2度目のシャッターチャンスが巡ってくることは、まずない。その、めったにない2度目のチャンスが巡ってきたと、ローゼンタールはすぐに気付いた。そこからは時間との勝負だ。2つ目の旗が掲げられるまでのわずかな時間で、絶好の場所でカメラを構える必要がある。身長165センチほどと小柄なローゼンタールは土のうを重ね、その上に立った。
近くにいたビデオカメラマンが「君の邪魔になっていないか?」と尋ねた。声をかけられたローゼンタールは振り返り、あやうく「世紀の1枚」を逃すところだった。
実はローゼンタールは弱視だったため、米陸軍の従軍写真家になることができなかった。ただ、従軍写真家に欠かせない反射神経に関しては、ローゼンタールは「猫並み」に優れていた。ローゼンタールは目の端で、はためく星条旗を掲げようとする海兵隊員たちの姿をとらえると、すぐさま振り返り、カメラを構えてシャッターを切った。あとは、運を天に任せた。
反射神経のおかげでシャッターは押せたが、実際うまく写真が撮れたかどうかはローゼンタールに確信はなかった。フィルムは現像のためグアムに送られ、現像されると写真電送装置で米サンフランシスコにある編集部に送られた。
ローゼンタールは星条旗を囲み、誇らしげにポーズを取る海兵隊員16人と米海軍の衛生下士官2人の写真も撮影している。言わば「保険」だったのだろう。この中の一人が先住民ピマ族のアイラ・ヘイズで、象徴的な1枚目の写真にも写っている(旗ざおから、手が離れている一番左の人物だ)。
ヘイズの戦友に、ジャック・サーマンという19歳の狙撃兵がいた。現在、サーマン氏は94歳。あの日の朝、摺鉢山に登ったことを覚えている。ヘイズは星条旗を掲げるチームの一員で、サーマン氏はチームの護衛の任にあたっていた。
ヘイズは大声で「ジャック、こっちに来いよ!」と叫んだ。「一緒に写真を撮ろう!」。ローゼンタールが撮った写真は不鮮明で、誰が写っているのかという論争を呼んでいる。しかし、サーマン氏は米コロラド州ラブランドにある自宅の日当たりの良い部屋で写真を確認し、一番左の海兵隊員が自分だと断言した。若者らしい熱意に満ちた表情で、ヘルメットを高らかに掲げている。
敵の銃弾がどこから飛んできてもおかしくない状況で、ヘルメットを脱いだのは賢明な行動ではなかったと、サーマン氏も認めている。「それでも、慣れてしまっていたのです。戦闘中は、あちこちで銃弾が飛び交っていましたから」
摺鉢山の頂上に星条旗を掲げると、面積20平方キロ余りの硫黄島に散らばる海兵隊員がすぐさま反応した。1つ目の旗を立てたとき、艦隊の船から汽笛が鳴り響き、兵士たちが空に向けて発砲した。
95歳のビル・モンゴメリー氏は「最高の気分でした!」と振り返る。モンゴメリー氏は硫黄島の戦いに最初から加わり、最後まで戦い抜いた。「最高の気分でしたよ! すべて終わったと思いました! あまりに多くの命が失われましたが、なんとか乗り切ったのです」
サーマン氏は仲間とともに楽観的な期待を抱いたが、それは誤りだった。硫黄島の戦いは1カ月続き、米軍は6821人の死者を含む2万6000人以上の犠牲者を出した。しかし、摺鉢山の頂上に立てられた星条旗は、戦いが終わるまで、太平洋の強い貿易風を受け、はためき続けた。戦争で疲弊した海兵隊員たちは星条旗を眺め、一日を乗り切る元気をもらった。
サーマン氏は次のように述べている。「暗くなった後も、大砲が放たれると、その閃光(せんこう)で山頂の旗が見えました。いつもそこに立ち、はためいていたのです。空中で爆発する爆弾が一晩中、私たちの旗はまだそこにあると証明してくれました」
ローゼンタールが摺鉢山の頂上で写真を撮影した2日後、AP通信がローゼンタールの象徴的な写真を公開した。ピュリツァー賞にも輝いたこの写真に完璧すぎると感じた人は多かった。
AP通信のエグゼクティブフォトエディターだったハル・ビュエル氏はあるインタビューで、2006年に94歳で死去するまで「ジョーは"でっち上げ"の疑いをかけられた写真を守ることに生涯をささげました」と語っている。軍当局と「LIFE」(ライフ)誌の編集部による調査で、本物の報道写真だと結論づけられても、でっち上げのうわさは根強く残った。
カメラが壊れ、世紀の一枚を逃したロウェリー二等軍曹は長年、ローゼンタールの写真は偽物に違いないと主張していた。しかし、その後、海兵隊のイベントで2人は再会し、ロウェリーは考えを変えている。
「彼らは友人関係を維持していました」とビュエル氏は述べている。
「事実、ジョーはロウェリーの葬儀に参列しました」。星条旗掲揚をじかに見た人の数は徐々に減っている。ローゼンタールの写真は、第2次世界大戦のまぎれもない印象的な瞬間の一つで、その精神までも写し出している。
サーマン氏は「今でもはためく星条旗を見るたび、当時のことを思い出します」と語る。「あの旗が私たち一人一人に語り掛けているのです。"仲間たちよ。私はまだここにいる。私はまだここにいる"と」
次ページでは、ローゼンタールが撮った星条旗の実物など、硫黄島の戦いに関する写真をご覧いただこう。
(文 BILL NEWCOTT、訳 米井香織、日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック 2020年3月2日付記事を再構成]
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