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「屈原」(書・吉岡和夫)

「屈原」(書・吉岡和夫)

中国・前漢時代の歴史家、司馬遷(紀元前145年ごろ~同86年ごろ)が書き残した「史記」は、皇帝から庶民まで多様な人物による処世のエピソードに満ちています。銀行マン時代にその魅力にとりつかれ、130巻、総字数52万を超す原文を毛筆で繰り返し書き写してきた書家、吉岡和夫さん(80)は、史記を「人間学の宝庫」と呼びます。定年退職後も長く研究を続けてきた吉岡さんに、現代に通じるエピソードをひもといてもらいます。(前回の記事は「『運命』に是も非もない? 史記にみる自由のすすめ」

もうすぐ5月5日、端午の節句です。この日は日本でも粽(ちまき)を食べる習慣がありますが、その由来になった人物がいます。中国・戦国時代(紀元前403年~同221年)の末期、楚(そ)の国の有力な政治家であり、詩人でもあった屈原(くつげん)です。中国では旧暦5月5日が彼の命日とされています。

屈原は汨羅(べきら)という川に身を投じて生涯を閉じます。一説によれば、それを悼んだ人々が、米を楝(おうち)の葉に包み、五色の糸でくるんで汨羅の淵に沈めたのが粽の起源です。五色の糸は、こいのぼりの吹き流しにもなったようです。

厄介な男の嫉妬

屈原は有能であり、民衆にも慕われる存在でしたが、不遇でした。今回は史記の「屈原賈生(かせい)列伝」をもとに、優れた人物の宿命あるいは「限界」、そして、その乗り越え方のひとつをみようと思います。

 屈原、名は平(へい)。楚の懐(かい)王に仕え、「左徒(さと)」という宰相に次ぐ地位にありました。深い学識のあった彼は、王のそばにあって国内に命令を発し、他国の賓客・諸侯にも直接応接するほどの人材です。懐王も彼を信頼していたはずでした。
 その信頼は王の側近のひとりの中傷により、いとも簡単に崩れます。その側近は、屈原が王の命令で作成していた法の草案を横取りしようとして断られます。怒った彼は懐王に「屈原は『自分以外に法をつくる能力のあるもはいない』と手柄を自慢している」と吹き込んだのです。厄介な男の嫉妬です。
 懐王は疑いをもち、事実を確認しようともせずに屈原を遠ざけます。こんな調子ですから、懐王はこの後も、威勢のいい意見の裏で保身をはかる人物や他国の計略にのせられ続け、楚を弱体化させます。最後は自身がライバル国の秦にとらわれ、そこで病死しました。
 それは懐王を守り、楚を立て直そうとした屈原の提言を聞かなかった結果でした。そして王位を継いだ頃襄(けいじょう)王のもとでも、屈原は危機を招いた張本人の宰相から中傷され、朝廷から追放されます。

司馬遷は屈原の詩「離騒(りそう)」にふれながら「彼の志を思えば、それは日月と光を争うと言ってもいいほどだ」と書いています。こうした美しい心の持ち主が事実無根の中傷などによっておとしめられるケースは、現代を含めいつの時代にもあることでしょう。

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