「音の距離」緻密に ソニープロ向けヘッドホン(下)
「年の差30」最新AV機器探訪
ソニーが30年ぶりに発売した新たなスタジオモニターヘッドホン「MDR-M1ST」。数多くのスタジオで採用されてきた定番モデル「MDR-CD900ST」以来のスタジオモニターヘッドホンとなる同作は、開発から実現までかなりの歳月をかけたという。前回に引き続き、その開発の裏話を平成生まれのライターと昭和世代のオーディオビジュアル評論家が聞いた。
コンシューマー用とモニター用の違い
小沼理(28歳のライター) MDR-M1STは、スタジオでミュージシャンやアーティストも使うわけですよね。彼らの意見も反映されているのでしょうか?
小原由夫(55歳のオーディオ・ビジュアル評論家) 実際に自分が鳴らしている音を聴くわけだから、何よりも重要ですよね。
松尾(MDR-M1ST製作に携わったエンジニア) 私たちのほうである程度音作りの方向性を決めた段階で、数名のミュージシャンにプロトタイプを試聴してもらいました。
潮見(MDR-M1STの音響設計担当者) このやりとりはやはり大変でしたね。方向性を固めるまでにまず時間がかかりましたが、ミュージシャンの意見を反映し、製品化までにさらに歳月がかかりました。通常のコンシューマー向け製品だと、製作期間はそこまで時間がかかりません。
小原 ミュージシャンからはどんな意見が上がったんですか?
松尾 やはり慣れているMDR-CD900STがいいという声もあったし、最初の頃は「音が遠い」という意見もありました。音が遠く感じると、たとえばボーカリストは声を張り上げてしまうわけですね。それで、実際のレコーディングしている音と歌との間にギャップが生まれてしまう。かといって音を近づけようとするとひずみ感が生じてしまうので、その調整には時間がかかりました。
潮見 コンシューマー向けは音と一定の距離をとり、奥行きや広がりが感じられるヘッドホンが主流なので、音を近づけるのは大変でしたね。松尾さんがヘッドホンで聴くとき、耳にぐっと押し当てて使っているのを見て、「物理的にも近づけないといけないんだな」とか、一つ一つ気づきを得ながら改良していきました。
松尾 潮見さんは最初自分のオフィスとスタジオを行き来していたのですが、あんまり頻繁に調整が発生するので、最終的にはスタジオで僕たちと話し、その場で調整するようになりました。(笑)
潮見 このスタジオに工具を持ってきて、ドリルやはんだごてを広げて音響部品を貼り替えたり、穴を開けたりしていましたね。
松尾 そうして作業風景を見ていると、「じゃあ、これをこうしたらいいんじゃない?」と意見したりもして……。
小沼 大変そうですね。(笑)
潮見 楽しかったですよ。松尾さんはMDR-CD900STにも関わっていたので、当時の話を聞かせてもらったりとか。
小原 どんな話をされたんですか?
松尾 当時の僕はアシスタントエンジニアだったのですが、MDR-CD900STのプロトタイプができあがって、すぐにドラマーに使ってもらったことがありました。そうしたら、サウンドチェックを始めたバスドラ一発目でダイヤフラム(振動板)が飛んじゃいました(笑)。もちろん製品化されたMDR-CD900STはそんなことないのですが、それぐらいミュージシャンは大きな音圧で使用しているという例として話しました。
潮見 ミュージシャンはコンシューマーではありえないような音量で使うんですよね。普段使わない音量でテストするのは、正直苦痛でした。(笑)
スイベル機構が採用されたコアな理由
小沼 デザインでの工夫は?
松尾 デザインはMDR-CD900STをベースに考えた点も多いのですが、現場での使い方が30年前とは変わってきている部分もある。その気づきやアイデアを反映しました。
徳重(MDR-M1STの商品設計担当) 設計する上で考えたのは、「プロ用の機器ってなんだろう?」ということ。僕は普段コンシューマー向けに作っていますが、道具として使っているプロにはプロなりの使い方や不満があるはずだから、それをまず教えてもらって反映しています。
小原 ケーブルが着脱式になっていたり、スイベル機構でハウジングが折りたためるようになったりしていますね。
徳重 ケーブルはやはり、スタジオでの使用時に断線する可能性があるので、ケーブルだけを取り替えれば済む方が手軽というのが大きいですね。スイベルはフィット感を高めたことに加え、スタジオではたくさんのヘッドホンを収納する必要があるので、少しでも省スペース化できるほうが便利なためです。
潮見 ちなみにスイベル部分が回転する向きは、コンシューマーとモニターヘッドホンでは逆なんです。コンシューマーは外で使うことも多いため、首に付けたときにイヤーパッド側が体に当たってクッションの役割を果たすよう設計されています。
徳重 エンジニアの方に話を聞いたところ、録音作業では「ヘッドホンを首にかけることは絶対にない」と言われました(笑)。使わないときはいつも外してテーブルに置くそうです。コンシューマーのスイベル方向だと、テーブルに置いたときに左右が逆になってしまう。そこでテーブルに置いた状態からすぐに装着できるように設計し直しました。
松尾 レコーディング中は何時間もヘッドホンを使用するので、とにかく掛け心地にはこだわりました。長時間つけていても疲れないものにしたいと思っていろいろ意見を出しましたね。
徳重 イヤーパッドの合皮を耐久性に優れてやわらかい素材にしたり、設置面積を広くして沈み込みをソフトにしたり、さらにドライバーユニットの面を耳に合わせて傾斜を持たせたり、……さまざまな工夫を凝らしました。30年間のコンシューマー向け製品の知見や、ソニーが蓄積している膨大な頭部や耳型のデータをもとに進化させています。
小沼 耳型や頭部のデータなんて集めているんですか。
潮見 ヘッドホンの装着感を研究するための仕事なんですよ。耳型をとる社員のことを社内では「耳型職人」と呼んでいます。1979年ごろからはじまって、今は僕が6代目耳型職人を務めています。
小沼 40年間も集めた耳型ってかなり貴重なデータですよね。そうした知見がいかされてMDR-M1STの快適なつけ心地が実現したわけですね。
リケーブルなど、カスタムして楽しむ人も
小原 MDR-CD900STは当初こそスタジオ用でしたが、その後は一般層にも使われるようになりました。MDR-M1STの開発では、そうした使われ方を想定したんですか?
潮見 宅録など、自宅で製作をする用途は想定しましたが、一般的なリスニング用としては想定していないですね。
徳重 本機は有線ヘッドホンで一般的なミニプラグ仕様でなく標準プラグなので通常の音楽プレーヤーで使うには変換アダプターが必要になりますし、ケーブルも2.5メートルとポータブルオーディオとしての普段使いには長いです。こうしたケーブルなども含めたプロダクトとして作っていますし、あくまでスタジオ用が基準です。
松尾 ただ、リスニング用に使っている方もいるみたいなんですよ。ケーブルが着脱できるので、ケーブルを替えたりしてカスタマイズをしながら楽しんでいる人は多いようです。車でもそうだけど、自分でカスタムできるものは面白いですからね。
小沼 一般の人にとっても、やっぱりスタジオでミュージシャンが聴いているのと同じ音が聴けるというのは魅力的ですよね。
松尾 現在はハイレゾ配信などで、プロの音質をそのまま誰でも聴ける環境が整いつつあります。僕たちが作った音楽をそのまま聴いてもらえるというのは、作り手からしても夢のように喜ばしいことです。ミュージシャンやエンジニアが「素晴らしいものができたぞ!」と手応えを感じているものを、直接共有できるわけですから。
小原 現場ではもうMDR-M1STが普及しているんですか?
松尾 ソニー・ミュージックスタジオでは基本的にMDR-M1STに入れ替わっています。「慣れているほうがいい」という人のためにMDR-CD900STも用意していますが、基本はこっち(MDR-M1ST)。新しいモニターヘッドホンのサウンドを気に入ってくれる人も多いです。
潮見 他のスタジオではまだすべて入れ替わるというほどではありません。スタジオだと台数も多いですし。それでもテレビの収録や、ライブハウスなど、幅広い用途で使ってくださる方が出てきているようです。
松尾 ソニーとソニー・ミュージックスタジオが共同開発で時間をかけて作っただけあって、音質、装着感ともに素晴らしいものができたと自負しています。MDR-CD900STのように、広く、長く使われるヘッドホンになってほしいですね。
◇ ◇ ◇
好きな音楽をより深く知りたいという人に
二つのヘッドホンの印象を、まず小原さんにうかがった。
「モニターヘッドホンという性格上、楽器や声をありのまま素直に再生するという、ある意味で"測定器"のような側面が求められる。そうした点からいえば、MDR-CD900STの音は、色付けのない、いい意味で素っ気ない音というのが第一印象だった。そこには独特の味わいや説得力はないのだが、では聴いていてつまらない音なのかというと、そんなことは決してない。面白みは薄いかもしれないが、ダイレクト感がある音なのだ。
MDR-M1STも基本的にはそうしたトーンとバランスを継承しているが、時代のニーズに合わせて、全帯域にわたる分解能が上がり、周波数レンジも拡大していることがわかる。スピード感というか、音の信号を忠実に鳴らすトランジェントのよさが著しく向上した。その上で強いて言えば、MDR-M1STの音の表現には、乗りの良さ、グルーヴ感があり、それが松尾さんのおっしゃる「グッとくる部分」で、ミュージシャンが自分のプレイを聴きながら、冷静にも熱くもなれる聴き心地よさなのではないかと感じた」
続いて、小沼さんがMDR-M1STとMDR-CD900STを聴いてみた。
MDR-M1STとMDR-CD900STは「ミュージシャンが目指した音を聴ける」ことが最大の魅力だと感じる。自分の好きなミュージシャンが製作時に使っていたかもしれないヘッドホンで聴くことで、楽曲を身近に感じることができた。
小原さんの言う通り、MDR-M1STとMDR-CD900STは色付けのない音だ。だが、それゆえにコンシューマー向けのヘッドホンにはない良さもある。たとえば、一つ一つの音を正確に鳴らせるため、これまで認識できなかった音まで聴き取れること。何度も聴いていた音楽が生まれ変わったように感じられるのが楽しく、お気に入りの曲をあれもこれもとずっと聴き続けてしまった。
普段、低音が強調されているなど自分好みのヘッドホンを使用している人が聴いてみると、新たな発見があるだろう。
コンシューマー向けを主に使っている人が聴いてみると、好きなミュージシャンが作った音楽をもっと楽しめそうだ。
1964年生まれのオーディオ・ビジュアル評論家。自宅の30畳の視聴室に200インチのスクリーンを設置する一方で、6000枚以上のレコードを所持、アナログオーディオ再生にもこだわる。MDR-M1STで聴いた音楽は「ドナルド・フェイゲン/サンケン・コンドズ」。
小沼理
1992年生まれのライター・編集者。最近はSpotifyのプレイリストで新しい音楽を探し、Apple Musicで気に入ったアーティストを聴く二刀流。MDR-M1STで聴いた音楽は「Chara+YUKI/echo」。
(写真 吉村永)
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