新型コロナで公演中止 俳優たちの心中は(井上芳雄)
第64回
新型コロナウイルスは、演劇界にも大きな打撃を与えています。政府の自粛要請を受けて、2月末以降、多くの演劇公演が中止や延期となりました。公演やイベントの自粛がいつまで続くのか、先行きも不透明です。僕たち舞台俳優にとっても、こんな事態は初めての体験。不安な日々を送りつつ、仕事のあり方を見直すきっかけにもなっています。
僕が舞台から見て、客席に異変を感じたのは2月に入ってからでしょうか。ミュージカル『シャボン玉とんだ 宇宙(ソラ)までとんだ』の後半の公演では、お客さまのほぼ全員がマスクをされていました。そんな光景は今まで見たことがなかったので驚き、みんな予防に気をつけているんだと感じていました。でも、ここまで感染が広がり、公演が次々と中止や延期となるようなことが起こるとは思っていませんでした。
3月は、僕はずっと4月4日に開幕する『桜の園』の稽古に入っています。稽古場でも毎日、俳優やスタッフの間で「あそこも中止したって」「あそこはやっているみたいだ」といった会話が交わされています。何十年も舞台に立っている大先輩が、「こんなに長く公演が中止になることはなかった」と言っていました。2011年の東日本大震災のときにも自粛はありましたが、2週間以上も劇場が閉まることはなかったので、演劇界でも初めての経験だと思います。
公演の期間中に突然、中止が決まったというカンパニーの話も聞きました。その日のカーテンコールが終わって楽屋に戻ったら、「明日から中止です。今日が千秋楽になりました」と言われて、みんな泣き崩れたそうです。千秋楽って、最終日だと思ってやるから緊張するし、感動的でもあります。俳優はそこをかみしめながらやっているので、突然、「さっきのが最後」と言われると、本当につらかったでしょう。初日を迎える前に中止が決まり、1回も本番をできなかったカンパニーもあります。俳優やスタッフの心中を察すると、さぞ残念だろうと思い、悲しくなってしまいます。
僕たちの『桜の園』も、幕が開くと思って毎日稽古に取り組んでいますが、もし公演がなくなり、この1カ月の稽古に何の意味もなくなってしまったら、相当落ち込むでしょう。みんなプロだからしっかり稽古をしているし、モチベーションも保っていると思うのですが、やはり心のどこかに新型コロナが影を落としています。そして不安を募らせるのが、いつ収束するのか見えないこと。公演の自粛が緩和されても、感染の状況によってはまた中止になるかもしれず、コロナ疲れというか、心理的な疲労がたまります。
そういう精神的なダメージとあわせて、経済的にも舞台俳優の状況は厳しくなっています。これだけ中止が続くと、死活問題になりかねません。ギャラはどうなるのか、この先どうやって生活するのか。現実に今、困っている俳優やスタッフがたくさんいます。舞台がなくなったので、バイトに行くという俳優もいます。有事の際に、演劇の仕事とはこんなに基盤が弱いものなのか、と実感する毎日です。
もちろん人命が一番大事だというのは、みんなの共通の認識だと思います。演劇は観客がいて初めて成り立つもの。その人が多く集まるのが最大のリスクということなら、感染拡大を防ぐために公演を自粛するのはやむを得ないこと。そのなかで、どうやってそれぞれが自分の仕事をするか、経済活動を続けていけるかということなのでしょう。
こういう事態になって、それぞれの俳優が、自分たちのやっている仕事は何なのか、その強みや弱みを考える機会になったと思います。演劇の仕事の素晴らしさについては、みんなよくわかっています。人に元気や勇気を与えるのが、僕らのやりがいだから。でもリスクというか、弱みのほうは、僕も含めて、あまり深く考えてこなかったように感じます。ずっといわれていることではありますが、米国のような俳優組合がないから、何かあったときに俳優の立場が弱かったり、連携がとれなかったりというのもそうでしょうし、契約のやり方とかもそう。演劇業界全体の仕組みを見直す、いい機会なのかもしれません。
個々の仕事について言えば、どうしても受け身です。仕事をもらって、場を用意してもらって、そこで表現するという役割だから。そこは大前提としても、同時に自分から発信できるものを持っていることが大事だと、あらためて思いました。僕の場合は、舞台だけじゃなくて、映像やラジオやナレーションなどの仕事もしているので、もし舞台が全部なくなったとしても、なにがしかの救いにはなります。ただ、それも結果として今そうなっているだけ。舞台だけをやるリスクを深く考えてのことではなかったように思いました。
演劇のファンの方たちも、すごく心配してくれていて、ありがたいことです。楽しみにしていた公演が中止になって、それでもチケットの払い戻しをしない人もいるそうです。その分を俳優やスタッフのギャラに充ててほしいという声があると聞きました。俳優やプロデューサーが思いを語る本をクラウドファンディングで作ろうとしている人たちもいて、目標額以上にお金が集まっているそうです。そこには僕も賛同して参加します。
何かしたいと思ってくれている人がたくさんいて、一方で現実に困っている俳優やスタッフがたくさんいる。それぞれをうまくつなげられればいいのですが。これを機に、そういうシステムを考えることも必要でしょうね。
毎日が千秋楽だと思って演じなさい
舞台の俳優は「毎日が千秋楽だと思って演じなさい」とよく言われます。自分たちもそう思ってやっているつもりですが、今回は本当にそれが起こってしまいました。毎日無事にやれることが当たり前じゃないことを身をもって感じています。
大きな視点で見ると、きっと生きていること自体が本当はそうなんでしょうね。「今日が最後と思って毎日を生きなさい」という言葉もあります。今日会った人と明日も会えるという確証はどこにもないし。だから人は、自分たちでいろんな節目をつくって、心の整理をつけながら前に進んでいく。それが生きるということだと思います。
僕たちがやっている演劇やエンタテインメントは、その小さな節目となり得るものだと思うのです。それを楽しみに毎日を頑張ったり、それがあるから苦しいことに耐えられたりする。だから、生きる上で絶対必要なものだと思うし、僕らもそれを励みにやっています。危機のときこそ、演劇やエンタテインメントの勇気や救いが必要だと思うので、今回の公演中止や延期はやむを得ないと分かっていながらも、俳優としては気持ちの持って行き場がなくてつらいですね。とにかく今は、コロナの感染拡大が収束したあとに、今回感じたことを表現に生かせる自分であるように、ただただ稽古に励むのみです。
1979年7月6日生まれ。福岡県出身。東京藝術大学音楽学部声楽科卒業。大学在学中の2000年に、ミュージカル『エリザベート』の皇太子ルドルフ役でデビュー。以降、ミュージカル、ストレートプレイの舞台を中心に活躍。CD制作、コンサートなどの音楽活動にも取り組む一方、テレビ、映画など映像にも活動の幅を広げている。著書に『ミュージカル俳優という仕事』(日経BP)。
「井上芳雄 エンタメ通信」は毎月第1、第3土曜に掲載。第65回は2020年4月4日(土)の予定です。
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