米首都ワシントン 200年以上奪われる権利、なぜ?
1760年代、英国は、植民地に対して税を課すだけで、人民が自ら政治体制・社会制度を自由に決定できる自決権を一切認めていなかった。これに激怒した米国への入植者は、「代表なき課税」に抗議した。
それから数百年が経った今も、この言葉は、別の米国民グループの現状を言い表している。コロンビア特別区(首都ワシントンD.C.)の住民、70万5000人のことだ。ワシントンD.C.は連邦政府の所在地だが、そこに暮らす住人もいる。米国の法を遵守し、税も払っている。にもかかわらず、1801年2月27日以降、議決権のある代表を連邦議会に送れずにいる。
なぜだろうか? その答えは、建国の時代にまでさかのぼる。米独立戦争中、各植民地の代表が集まる大陸会議には、恒久的な所在地がなかった。米国憲法を制定する際、恒久的な首都をどこに定めるか、建国者たちは言い争っていた。
だが、一点において、確かな合意があった。1783年6月の事件を繰り返したくなかったのだ。酔っ払った兵士の集団が、給料の未払いに怒り、フィラデルフィアにある州議会議事堂に押し寄せた。地方当局がその対処に失敗し、暴徒は連邦議会を町から追い出した。
このような惨事の再発を防ぎ、政府所在地に対して新国家の支配を確立するため、政治家たちは連邦直轄の都市というアイデアに同意した。米国憲法第1条第8節第17項において、10平方マイル(約26平方キロ)を超えない政府の所在地に対し、立法権を行使する権限を連邦議会に与えたのだ。だが、どこを首都にすべきか、誰が得をするのかをめぐり、論争が繰り広げられた。
北部の州は、首都を北部に置き、独立戦争による負債を連邦政府に肩代わりさせたいと考えていた。しかし、すでに借金の多くを返済していた南部の州は、これに反対した。この問題により連邦議会は膠着状態に陥り、激しい論争が巻き起こった。
当時の国務長官トーマス・ジェファーソンは、南部バージニア州の下院議員ジェームズ・マディソンと北部の側に付いていた財務長官アレクサンダー・ハミルトンを呼び、転換点となる夕食会を開いた。
「1790年妥協」で首都を南部に
その夕食会で、後に1790年妥協と呼ばれる取引が行われた。首都を南部のポトマック川沿いに置く代わりに、独立戦争時の北部の債務を連邦政府が肩代わりするのを妨害しないことに、マディソンが同意したのである。
その結果、首都立地法が制定され、後にワシントンD.C.となる地に恒久的な首都を定めた。また、同法により、初代米大統領のジョージ・ワシントンに、その場所を選択する権限が与えられた。ワシントンはジョージタウンに隣接する地域を選択し、メリーランド州とバージニア州はその土地を連邦政府に譲渡した。こうして1801年2月、連邦議会が管轄権を譲り受けた。
この地域にもともと住んでいた人は、ワシントンD.C.の創設により突然権利を奪われた。この新たな地区は、活気に満ちあふれていたものの、どの州にも属していなかったため、住民には地域や連邦の物事に関する投票権がなかったのだ。
過去200年、これに苦しめられてきたワシントンの住民は、自治権の獲得を推進してきた。1802年には自治憲章が制定され、12人の市議会議員選の選挙権が認められた。だが、ワシントン市がコロンビア特別区に統合された1871年、自治憲章は突然破棄され、特別区は大統領が任命する3人の委員によって運営されるようになった。
ワシントンD.C.の住民は、権利の拡大を求め、連邦政府に圧力をかけ続けた。1963年には憲法修正第23条が可決され、大統領選の選挙権を獲得し、1973年にはコロンビア特別区地方自治法により、市長と市議会を有する代議制の地方政府が認められた。
だが依然として、ワシントンD.C.の住民には、他の米国民が享受する自治権と選挙権がない。ワシントンD.C.の条例はいまだに連邦議会による審査の対象であり、議決権のない下院議員は選出できるものの、連邦議会議員選の選挙権は認められていない。
コロンビア特別区を51番目の州とする圧力は増しているが、今日に至るまで、住民の権利は奪われ続けている。
(文 ERIN BLAKEMORE、訳 牧野建志、日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック 2020年3月8日付記事を再構成]
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