宗教学者・中沢新一さん 父と石仏の研究、互いに刺激
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は宗教学者の中沢新一さんだ。
――お父さんは在野の研究者だったそうですね。
「紺屋もしていた生糸農家の出身です。旧制中学の時、宮沢賢治の影響を受けた教師から『学問は働きながらやるものだ』とふき込まれ、家族の反対を押し切って、本当に中学を中退し技術者として働きだしました」
「登山好きの父が尾瀬でミズバショウを撮っていると、『君、そのショットは良くない』と声をかけた人がいました。高山植物学の権威、武田久吉博士です。父は武田先生と懇意になって活動を共にするうちに、民俗学の方法を学んで石仏を研究し始めます」
――子供の目に映るお父さんはどんなふうでしたか。
「熱心な共産党員だった父は、私を自転車の後ろに乗せて地域の会合によく連れ出しました。『これが中沢君の息子かぁ』とひとまず驚かれると、すぐ議論が始まります。私には何を話しているのかさっぱりでしたが、大人たちの本気の姿に圧倒されました」
「父は戦後に民俗学を離れ、市会議員を務めるなど政治に没頭しましたが、党内闘争で除名され2、3年意気消沈していました。そんな父を見るのは私もつらかった。父が石仏の研究を再開したのはそれからです」
――研究を手伝うこともあったのですか。
「高校生になっていた私は毎週のように父と自転車や電車で県内の石仏を巡り、石仏の地図を作りました。助手役でしたが、楽しかったですね。私が大学生の頃、父は民衆が権力への抵抗のために投げる石、いわゆる『つぶて』を研究していて、私も大学図書館で外国の資料を探しました。互いに刺激し合う研究仲間のような関係でした」
――お父さんから影響は受けましたか。
「高校生の時、日本の大学に行きたくないと父に漏らしたことがあります。父は『大学で基礎的な勉強はしておけ』と言い、ソ連(当時)の大学の入学書類まで取り寄せてくれました。学問のレールを自ら絶ち、その苦労を知っていたから心配してくれたのでしょう」
――東大に進み、宗教学を学びます。
「父が地べたをはって調べる様子を見ていたから、民俗学は大学で学ぶものではなく、アマチュアの学問でいいと思いました。それで宗教学を選んだのです」
「父は約40年前にがんで亡くなりましたが、その時のことが不思議なんです。チベット仏教の研究でネパールの山中にいた私はある日、郵便ボックスを開ける夢をみました。胸騒ぎがして首都のカトマンズまではるばる下り郵便を確認したら、父危篤の電報が来ていた。急きょ帰国し、亡くなる前日に会うことができました。病床の父が最後に私にかけた言葉は『どこかに就職できたらいいね』でした」
(聞き手は生活情報部 木ノ内敏久)
[日本経済新聞夕刊2020年3月17日付]
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