江戸時代の人事異動 殿様も悩んだリストラや引き継ぎ『お殿様の人事異動』

 寺社奉行に転じた忠相は六十歳になっていた。寺社奉行は本来大名が任命される職であるため、幕府としては忠相を大名にする必要があり、寺社奉行在職中に限るという条件で一万石の大名に取り立てた。大名格である寺社奉行を退任すれば、旗本に戻ることになる。
(第5章 人事異動の悲喜劇~嫉妬と誤算 176ページ)

実は、町奉行から寺社奉行への栄転には裏の事情があったのです。実務官僚のトップである町奉行に比べると、大名役の寺社奉行は幕政への影響力が小さく一歩引かされた面は否めません。「忠相にとり栄典には違いなかったが、幕府の人事上の関連では、大目付や留守居と同じく『一丁上がり』のポストだったのです」と著者は解説しています。

実績を上げた大岡忠相がなぜ「名誉職」に追いやられたのか。それは彼が有能だった点に一因があります。町の秩序を維持するために経済対策を行うことは、町奉行の大きな役目の一つでした。忠相は江戸の物価を安定させるために、金貨と銀貨の相場に介入したのです。当時は金貨に対する銀貨の価値が下がると江戸の物価は安定しました。そこで現在の中央銀行さながら、公定相場に介入して銀相場の引き下げに動きます。

この行動は政策的には正しかったかもしれませんが、両替商の激しい反発を招きます。かえって江戸の経済が大混乱に陥りました。怒った両替商(=銀行)が一斉に業務を停止したからです。その後、忠相が打ち出す政策に対して両替商はことごとく反発しました。2カ月近く続いた両者の対立をおさめるために、幕府は突然、大岡を寺社奉行にする人事を発表したのです。おそらく、経済的な影響力をバックに両替商が幕府に圧力をかけたのでしょう。ただ、幕府としては忠相の政策に問題があったことを認めるわけにはいきません。忠相の破格の出世の裏には、政治の力学が強く働いたと言えそうです。

たった一度の改易撤回

本書の最後に紹介されているのは、江戸時代にただ一度だけ起こった「国替え拒否」事件です。天保11年(1840年)に幕府は庄内・川越・長岡の3藩に「三方領地替え」を命じました。ところが、命じられた殿様の反発や領民たちの強固な反対運動を受けて幕府は国替えを中止したのです。当時、老中首座の地位にあった水野忠邦は、最後まで撤回に反対しましたが押し切られてしまいました。

 忠邦は今回の中止が悪しき前例になることを危険視していた。大名の抵抗により幕府の命令がいちいち覆されるようでは、その威信はもはや成り立たない。
 国替えは莫大な出費を大名に強いるものだったが、江戸城の修復や河川の修築にしても巨額の出費は避けられない。今後、何かと理由をつけて幕府からの課役を逃れようとするのは火を見るよりも明らかだった。
(第6章 国替えを拒否したお殿様~幕府の威信が揺らぐ 224ページ)

結局、これ以後に幕府が国替えを指示することはありませんでした。30年もたたないうちに幕藩体制は終わってしまい、明治維新になったからです。将軍から一大名の地位に降りることになった徳川家は、自分たちが江戸を明け渡して静岡の新しい領地に移住させられることになります。家臣たちの多くは徳川家と行動を共にし、その多くは生活に困窮していくことになりました。

国替えという仕組みは明治維新を期に廃れました。しかし「国替えに従わなければ取り潰しになる」という厳しいおきては、「転勤を断ると会社にいられなくなる」といった会社員の固定観念に通じるところがあるかもしれません。本書は人事異動と転勤の意味について、少し斜めから考えてみるヒントを与えてくれそうです。

◆編集者からのひとこと 日本経済新聞出版社・網野一憲

あるとき安藤先生から、「江戸時代のお殿様は幕府の命じるままに転封(国替え)させられて、引っ越し費用は自前。大変だったんです。理不尽な辞令あり、足の引っ張り合いあり。今と同じですよね」というお話がありました。ちょうど映画『引っ越し大名』が話題になっていたときで、これは面白そうだと、早速、原稿をお願いしました。

「誰某さんが部長になるらしい!」「あの人、なんで飛ばされちゃったの?」――会社員にとって人事は「居酒屋トーク」の定番ネタ。日本が巨大なひとつの会社組織のようなものだった江戸時代も同じだったのです。

「国替えに伴う未納年貢問題で犬猿の仲になった黒田家と細川家」「上司や同僚の嫉妬から出世できなかった長谷川平蔵」「最後は閑職に祭り上げられた大岡越前」などお馴染みの人物の知られざるエピソードも満載。人事をめぐる泣き笑いを通して権力闘争を描き出す、歴史ノンフィクションです。

一日に数百冊が世に出るとされる新刊書籍の中で、本当に「読む価値がある本」は何か。「若手リーダーに贈る教科書」では、書籍づくりの第一線に立つ出版社の編集者が20~30代のリーダーに今読んでほしい自社刊行本の「イチオシ」を紹介します。掲載は原則、隔週土曜日です。

お殿様の人事異動 (日経プレミアシリーズ)

著者 : 安藤 優一郎
出版 : 日本経済新聞出版社
価格 : 935円 (税込み)

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