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「介子推」(書・吉岡和夫)

「介子推」(書・吉岡和夫)

中国・前漢時代の歴史家、司馬遷(紀元前145年ごろ~同86年ごろ)が書き残した「史記」は、皇帝から庶民まで多様な人物による処世のエピソードに満ちています。銀行マン時代にその魅力にとりつかれ、130巻、総字数52万を超す原文を毛筆で繰り返し書き写してきた書家、吉岡和夫さん(80)は、史記を「人間学の宝庫」と呼びます。定年退職後も長く研究を続けてきた吉岡さんに、現代に通じるエピソードをひもといてもらいます。(前回の記事は「なぜ孔子は弟子に恵まれたのか 史記が選んだ理想の師」

中国には古来、「寒食」という風習があります。日本でも「かんしょく」あるいは「かんじき」と読み、春の季語です。冬至の日から数えて105日目、今の暦なら4月初めになりますが、この日は火を使って煮炊きをせずに冷たいものを食べることになっていました。

自ら姿を消した謎の人物

中国・春秋時代(紀元前770年~同403年)の覇者のひとりに晋(しん)の文公(ぶんこう)がいますが、その彼に仕えた介子推(かいしすい)が、山中で焼け死んだのを人々が悲しみ、この日には火を用いないようにしたのが由来とされます。

介子推は謎の人物です。史記には彼の生い立ちや具体的な実績は書かれておらず、論功行賞の大切さを伝えるエピソードのキーマンとしてのみ登場します。今回は介子推にふれながら、論功行賞や自己PRのあり方について考えてみようと思います。

 のちに晋の文公となる重耳(ちょうじ)は父、献公の後継者争いから逃れ、諸国を放浪します。史記に「少(わか)きより士を好む。年十七にして、賢士五人有り」と記されていますが、介子推はその5人のひとりであったと私は考えています。「隠者」とも記されていますから、目立たぬように重耳の身辺を警護した用心棒、日本でいえば忍者のような役割だったのではないでしょうか。
 19年に及ぶ亡命生活を送った重耳は従者5人の献身によって晋の君主となり、表舞台に返り咲きます。しかし、なぜか介子推だけには何の恩賞もありませんでした。他の従者の中には、主君の前でわざわざ「私は過ちばかりの部下なので、今はおそばを離れようと思います(が、いかがでしょう)」などと暗に恩賞を求め、厚遇された者もいます。
 介子推は自ら要求するのを潔しとしません。それでも無念の思いはあったようで「わが君の時代は天が与えたものだ。ところが、二三の者は自分の功績だと思っている。臣下が天の功を自分の手柄と勘違いし、君主がそんなものに恩賞を与えている」と憤ります。そして断じます。
  上下(しょうか)相蒙(あざむ)く。與(とも)に處(を)り難し。
 上も下もごまかしあっているようなもの。そんなところにいたいとは思いません――。これは主君に対しても厳しいひと言ですが、真っすぐな心から出た真実の言葉だと思います。それを口にできるのも、主君を守り抜いたことへの自負があればこそだったのではないでしょうか。
 介子推の母は息子に「どうして恩賞を求めないのか」と尋ねます。彼は「主君を批判しておいて他人と同じまねをするのは、さらに罪深い。恨み言を口に出した以上、この国に仕えるわけにはいきません」と応じ、さらに母が「せめてお前の気持ちだけでも主君に申し上げてみたら」と促すと「言葉で自分を飾り、顕示するくらいなら、世間を逃れ、身を隠そうと思います」と答えました。そして母子ともに山中に逃れ、二度と姿をみせませんでした。

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