寅さんと食べたステーキが支え 倍賞千恵子さん
食の履歴書
映画以外で「お兄ちゃん」と呼んだことはない。だが「男はつらいよ」で26年も共演した故・渥美清さんとは実の兄妹のような関係を築いてきた。葛藤、挫折、失恋……。人生の節目で疲れた心を温かく癒やしてくれたのは、そんな「お兄ちゃん」と共にした肉料理だった。
ここぞと気合を入れたい大一番の前に食べるのは決まって肉料理。「特にコンサートの前はステーキが多いかな。分厚いほど食べ応えがあって好きなの。何だか元気をもらえるような気がするから」
好物は牛のヒレ肉。150グラムくらいはペロリと平らげる。朝食でステーキをあえて2切れほど残し、本番直前に食べることもある。「公演中はずっとステージで歌っているでしょう。カロリーを消費するから、そのくらいでちょうどいいの」と屈託なく笑う。
昔から肉料理が大好きだった。食べ盛りの松竹歌劇団(SKD)時代に憧れたのはトンカツ定食。浅草にあった国際劇場の屋上で休憩していると、階下のトンカツ屋から揚げたての匂いが上ってくる。思わず生ツバを飲み込んだ。
でも肝心のお金がない。1日3回踊っても、5回踊っても、手当は同じ180円。5回踊れば化粧を直す回数が増え、高価なドーランが減ってしまうのでいつもハラハラしていた。「お金をためて、腹いっぱいトンカツを食べるのが夢だった」と振り返る。
葛藤が心に芽生えたのは新人女優になって間もない頃。SKDから松竹にスカウトされて銀幕デビューした。人もうらやむ大抜てきだが、自分から望んだ道ではない。映画会社が用意したレールの上を歩くのがすぐ嫌になった。
「本当はね。SKDに戻り、舞台で歌って、踊っていたかったの……」。撮影現場では監督に怒られてばかり。松竹の大船撮影所をよく抜け出しては江ノ島に行き、海に向かって大声で叫んでいた。
「おーい、バカヤロー。もう映画なんて大嫌いだぁ」
女優として苦悩する姿を見守ってきたのが渥美さんだ。
2作目の映画「水溜(みずたま)り」で初めて共演した。倍賞さんが演じたのは公園でスカートをめくり、下着を見せてお金をもらう貧しい女子工員。渥美さんはスカートの中をギラギラした目でのぞく男性客役。
撮影後、渥美さんが優しい視線で自分を見ていたのをボンヤリと覚えている。「うまく言えないけど、石がお芝居しているって感じね。武骨なのに、その石に触りたくなっちゃう。そんな人だった」
別の役もやりたいのに…
やがて寅次郎役と異母妹、さくら役で2人が共演した「男はつらいよ」が大ヒットすると、別な葛藤が頭をもたげてくる。四六時中、どこに行っても「さくらさん」と呼ばれてしまうのだ。「女優として別の役もやりたいのに……」。周囲の期待に重荷を感じるようになっていた。
そんな時、渥美さんがさりげなく食事に誘ってくれた。
「おい、飯食いに行くか」
向かった先は東京・六本木の高級ステーキハウス。コック帽をかぶったシェフが鉄板で焼く分厚いステーキに目を見張った。ジューと肉が焦げる音や煙や匂い。バターが鉄板でクルクルと踊っている。
渥美さんは悩みの訳を細かく尋ねたりはしない。ただステーキを一緒に楽しく食べるだけ。それで凝り固まった気持ちがスッと和らいでいく。「みんなに役名で呼んでもらえるなんて、役者にとって最高の褒め言葉なんだぞ」。そう励まされている気がした。
以来、数々の悩みに無言の肉料理で寄り添ってくれた。葛藤、挫折、失恋……。映画以外であえて「お兄ちゃん」と呼んだことはない。だが困った時に黙って助けてくれる。「私にとっては、やっぱりお兄ちゃんだな」。そんな思いをジワリとかみしめた。
別れは突然、やって来る。
「男はつらいよ」シリーズ49作目の顔合わせが渥美さんとの最後の食事になった。1996年6月。亡くなる2カ月ほど前のことだ。場所は代官山のフランス料理店。体調が良くないと聞いていたが、元気そうにステーキを食べていたのでひと安心した。食後のコーヒーを飲んだ時、その渥美さんからこう聞かれる。
「俺、だいぶ老けたか?」
「そりゃ、老けたよ。でもさ。もし同年代のクラス会があったら、きっと一番若く見えるのは渥美ちゃんだよ」
すると渥美さんはうれしそうに笑いながら「ほぉ、そうかい」と答えた。それが最後の言葉になった。武骨だけど、いつも優しかった「お兄ちゃん」。元気を出そうと肉料理を食べるたびに、そんな懐かしい横顔が浮かび上がる。
すし店ののれんに揮毫
開業した2003年以来、通っているのが横浜市港北区の「すし処あおい」(電話045・478・2345)。新横浜駅前から横浜アリーナに向かうアリーナ通り沿いに店を構える。
ヒノキのカウンター(11席)の左奥が倍賞さんの指定席。「座ったら、注文しなくても白身、赤身、貝、白子など旬のネタが自然に出てくる」。冬だと昆布締めにしたヒラメ、芽ネギと合わせたクエ、火で軽くあぶった白子などが美味。光った皮が苦手だという倍賞さんのために、コハダをあえて裏返しに握った裏メニューにも応じる。
知人の俳優で陶芸が趣味だった藤竜也さんが焼き上げたおちょこととっくりで「日本酒をグイッと飲むのが格別」。のれんや看板の店名は倍賞さん自身が揮毫(きごう)した。価格は時価。夜のお任せコースは1万円から。
最後の晩餐
トマト、ジャガイモ、タマネギ、ニンジン……。野菜の具がたくさん入った味噌汁がいいな。トマトって意外に味噌に合うのよ。かつお節や煮干しのだしが利いた熱々の味噌汁をすすりながら、炊きたてのご飯をかみしめる。そんな普段の食事が食べられたら満足ね。
(編集委員 小林明)
[NIKKEIプラス1 2020年2月29日付を再構成]
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