寅さんと食べたステーキが支え 倍賞千恵子さん食の履歴書

向かった先は東京・六本木の高級ステーキハウス。コック帽をかぶったシェフが鉄板で焼く分厚いステーキに目を見張った。ジューと肉が焦げる音や煙や匂い。バターが鉄板でクルクルと踊っている。

渥美さんは悩みの訳を細かく尋ねたりはしない。ただステーキを一緒に楽しく食べるだけ。それで凝り固まった気持ちがスッと和らいでいく。「みんなに役名で呼んでもらえるなんて、役者にとって最高の褒め言葉なんだぞ」。そう励まされている気がした。

以来、数々の悩みに無言の肉料理で寄り添ってくれた。葛藤、挫折、失恋……。映画以外であえて「お兄ちゃん」と呼んだことはない。だが困った時に黙って助けてくれる。「私にとっては、やっぱりお兄ちゃんだな」。そんな思いをジワリとかみしめた。

別れは突然、やって来る。

「男はつらいよ」シリーズ49作目の顔合わせが渥美さんとの最後の食事になった。1996年6月。亡くなる2カ月ほど前のことだ。場所は代官山のフランス料理店。体調が良くないと聞いていたが、元気そうにステーキを食べていたのでひと安心した。食後のコーヒーを飲んだ時、その渥美さんからこう聞かれる。

「俺、だいぶ老けたか?」

「そりゃ、老けたよ。でもさ。もし同年代のクラス会があったら、きっと一番若く見えるのは渥美ちゃんだよ」

すると渥美さんはうれしそうに笑いながら「ほぉ、そうかい」と答えた。それが最後の言葉になった。武骨だけど、いつも優しかった「お兄ちゃん」。元気を出そうと肉料理を食べるたびに、そんな懐かしい横顔が浮かび上がる。

すし店ののれんに揮毫

すし処あおい(横浜市)にはコハダの裏返しの裏メニューが

開業した2003年以来、通っているのが横浜市港北区の「すし処あおい」(電話045・478・2345)。新横浜駅前から横浜アリーナに向かうアリーナ通り沿いに店を構える。

ヒノキのカウンター(11席)の左奥が倍賞さんの指定席。「座ったら、注文しなくても白身、赤身、貝、白子など旬のネタが自然に出てくる」。冬だと昆布締めにしたヒラメ、芽ネギと合わせたクエ、火で軽くあぶった白子などが美味。光った皮が苦手だという倍賞さんのために、コハダをあえて裏返しに握った裏メニューにも応じる。

知人の俳優で陶芸が趣味だった藤竜也さんが焼き上げたおちょこととっくりで「日本酒をグイッと飲むのが格別」。のれんや看板の店名は倍賞さん自身が揮毫(きごう)した。価格は時価。夜のお任せコースは1万円から。

最後の晩餐

トマト、ジャガイモ、タマネギ、ニンジン……。野菜の具がたくさん入った味噌汁がいいな。トマトって意外に味噌に合うのよ。かつお節や煮干しのだしが利いた熱々の味噌汁をすすりながら、炊きたてのご飯をかみしめる。そんな普段の食事が食べられたら満足ね。

(編集委員 小林明)

ばいしょう・ちえこ  1941年東京生まれ。松竹歌劇団(SKD)を経て「斑女」で女優デビュー。62年「下町の太陽」でレコード大賞新人賞。映画「男はつらいよ」のさくら役で国民的人気女優に。第1作から50作目「お帰り寅さん」(昨年12月公開)までシリーズ全作に出演。

[NIKKEIプラス1 2020年2月29日付を再構成]

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