東京五輪、男子陸上リレー「金」を最優先? 有森裕子
2020年東京五輪の開幕まで、残すところ半年を切りました。さまざまな競技で、これから代表を決める選考会が続々と開催されます。陸上競技で言えば、6月25日から大阪で開催される日本陸上競技選手権大会が選考会になります。
マラソンの残り1枠をめぐる戦いはいよいよ大詰め
マラソンでは既に、2019年9月に開かれた代表選考レースMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)で、男子は中村匠吾選手(富士通)と服部勇馬選手(トヨタ自動車)が、女子は前田穂南選手(天満屋)と鈴木亜由子選手(日本郵政グループ)が、それぞれ代表に決定。男女とも残り1枠をかけた戦いが盛り上がりを見せています。
女子は、1月26日に開催された大阪国際女子マラソンで、松田瑞生選手(ダイハツ)が設定記録(2時間22分22秒)を突破する2時間21分47秒で見事に優勝を果たし、最有力候補に躍り出ました。MGCでは4位に終わった松田選手でしたが、その悔しさをバネに、地元・大阪の声援を受けながら力強い走りを見せてくれました。
一方、MGCで3位だった小原怜選手(天満屋)は、この大会で2時間28分12秒の13位に留まり、残念ながら代表争いから後退しました。女子は今後、3月8日の名古屋ウィメンズマラソンで松田選手の記録を上回る日本人選手が出なければ、松田選手が3枠目の代表決定となります。
男子は、2時間05分50秒の日本記録保持者で、MGC3位の大迫傑選手(ナイキ)が有利な情勢です。その大迫選手や、前日本記録保持者の設楽悠太選手(ホンダ)、2018年ジャカルタ・アジア大会男子マラソン優勝の井上大仁選手(MHPS)らが、3月1日の東京マラソンに招待選手として参加することが発表されました。大迫選手の持つ日本記録よりも1秒短い設定記録(2時間05分49秒)突破を目指し、男子も熾烈な戦いが繰り広げられることが予想され、最終選考となる3月8日のびわ湖毎日マラソンまで目が離せません。
男女ともに最終1枠は、設定記録を突破した最速の選手が選ばれるという非常に分かりやすい選考基準です。男女ともにハイレベルなレースを見られるのは、私自身、ワクワクしてとても面白く、これこそプロのレースのように思います。この緊張感のある状況を楽しめるぐらいのタフなメンタルの持ち主が、男女ともに最後の1枠に入れるのでしょう。
東京五輪の100m、200mは「1人1種目」に制限?
さて、マラソンの代表選考レースが大詰めを迎える中で、陸上界では新たな議論も生まれています。日本陸上競技連盟(以下、陸連)は、2019年12月16日の理事会で、東京五輪の100m、200mの代表選手について「原則としてどちらか1種目のみの出場とする」という要項を提案しました。つまり、同じ選手が100m、200mの両方にエントリーすることができなくなるというものです。
短距離の個人種目の出場を制限する目的は、男子4×100mリレーでの金メダル獲得を目指し、リレーメンバーの負担を軽減することです。陸連の麻場一徳強化委員長は、個人種目出場数を制限する理由として、(1)東京五輪では、リレーのエントリー選手の数が前回のリオデジャネイロ五輪の6人から5人に減らされ、故障者が出たときの対応が大変であること、(2)短距離の競技日程が世界選手権に比べて過密なため、選手の故障を防ぐ必要があること――などを挙げていました。
この「過密日程」とは、具体的にどのようなものなのでしょうか。2019年にドーハで行われた世界陸上競技選手権大会の日程と比べてみましょう。
このように、世界選手権では、100m、200mを終えてからリレーまでに中2日の休みがあったのですが、東京五輪では、1日も休まずリレーが行われます。この日程で100m、200m、リレーの3種目に出場し、準決勝、あるいは決勝まで戦うと仮定すると、選手の負担が大きすぎ、最後のリレーに万全のコンディションで臨めなくなると陸連は考えたのでしょう。
「個人種目をしっかり戦った上で、リレーもがんばりたい」
日本オリンピック委員会(JOC)が東京五輪の金メダル目標数として過去最多の「30個」を掲げる中、陸上で金メダルが狙える男子4×100mリレーで勝つために、万全を期したいとの考えを示した陸連。その背景には、2019年に日本中を沸かせたラグビーワールドカップのように、「 "ワンチーム"で戦ってメダル獲得」という世間の期待に応えたい思いもあるように感じます。
しかし、この報道を受け、1人1種目しか出場できないことへの疑問が、SNSなどで数多く上がりました。何よりも、当事者である選手たちは動揺したことでしょう。100mの日本記録保持者で、100m、200m両方で決勝進出を狙える実力の持ち主であるサニブラウン・ハキーム選手(米フロリダ大)は、「まずは個人100m、200mをしっかり出てからのリレーかなと思っている」「個人種目をがんばった上で、リレーも手を抜かないスタンスでやっていければ」とコメントしています。選手からこうした意見が出るのは当然だと思います。100m9秒台が3人もいる日本の短距離選手の実力は、過去最高の状況で、短距離で五輪の決勝の舞台に立つことは、どの日本選手にとっても大きな夢と言っていいでしょう。
私は、短距離選手が100mや200mを1本走るごとにどれくらい体にダメージを受け、どれくらいのリカバリー時間が必要かを知りませんし、このタイトな日程が選手にどれだけの影響を及ぼすのかも分かりません。しかし、リレーでのメダル獲得という目標を最優先したい陸連側と、個人種目もしっかり戦いたいという選手側の、五輪に対する価値観の違いが浮き彫りになったこの状況において、陸連は、当事者である選手の思いにきちんと耳を傾けてほしいと思います。
オリンピックは国家間の競争ではない
オリンピック憲章には、「オリンピック競技大会は、 個人種目または団体種目での選手間の競争であり、 国家間の競争ではない」と記されています。国の戦いではなく、個人の戦いであると捉えられるこの記述を今一度考えてみると、個人よりも組織の論理を優先する今回の陸連の提案に、異論を唱える人が出てきてもおかしくないようにも思います。
もちろん、団体競技と個人競技では、勝利に対する考え方や価値観は異なります。ラグビーやサッカーといった団体競技は、「誰かのために戦う」「チーム一丸となって」という言葉や思いが力につながりやすいように感じます。一方、個人競技ではどうでしょうか。少なくとも私自身は、「自分自身のために戦う」という意識が大きな原動力になっていました。
今回の提案は、あくまで提案であり、最終決定は3月になる見込みです。さまざまな思惑が渦巻く中、陸連、監督・コーチ、そして当事者である選手が声を上げて、大いに議論する余地があるでしょう。選手が自分たちの意思で決めて、覚悟を持って挑んだ結果と、そうではない結果では、後悔や納得の度合いが異なります。そのことは、東京五輪以降の人生にも大きく影響するでしょう。選手たちが責任と覚悟を持って五輪に挑める状況になることを切に願います。
(まとめ:高島三幸=ライター)
元マラソンランナー。1966年岡山県生まれ。バルセロナ五輪(1992年)の女子マラソンで銀メダルを、アトランタ五輪(96年)でも銅メダルを獲得。2大会連続のメダル獲得という重圧や故障に打ち勝ち、レース後に残した「自分で自分をほめたい」という言葉は、その年の流行語大賞となった。市民マラソン「東京マラソン2007」でプロマラソンランナーを引退。2010年6月、国際オリンピック委員会(IOC)女性スポーツ賞を日本人として初めて受賞した。
[日経Gooday2020年2月11日付記事を再構成]
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