芸人・塚地武雅さん 「父に認めさせたい」が原動力
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回はお笑い芸人で、俳優にも活動の幅を広げている塚地武雅(むが)さんだ。
――お父様は厳しく、怖かったそうですね。
「昔気質の頑固者で亭主関白。酒好きで家に友人を招いて酔っ払っては、ささいなことで言い合うんですよ。おやじが怒ることはしないようにしていましたね」
「小学生の頃、おかんと一緒に出かけて、当時の阪急ブレーブスの野球帽を買ってもらったことがあります。でも、おやじはジャイアンツファン。『こんなのかぶるな』と怒って、ハサミで切り刻まれました。おかんが翌日、ジャイアンツのを買ってくれましたけど……」
――お笑いの道に進むのにも反対だったとか。
「高校卒業の時に『お笑いをやりたい』と言ったら、鼻で笑われて『とにかく大学に行け』。自分は長男だし、これ以上言えないと観念し、浪人して大学に進みました。卒業後は仏壇メーカーに就職しました。そのときは一生やるつもりだったんです」
「でも手帳の余白にお笑いのネタを書くのを楽しみにしている自分がいて。『これやらんと後悔するな』と思い直しました。一生に一度の反抗だと覚悟して、『会社辞めようと思う。お笑いやりたい』とおやじに打ち明けました」
「おやじは『何のために大学行ったんだ』。おかんも『そんなんやめて』と泣く。さらに東京に行くと告げると、おやじは『出て行け。援助は一切しないぞ』と勘当同然です。もっとも半年ほどは、上京資金をアルバイトで稼ぐため自宅にいたんですけどね」
――コントの個性的なキャラクターが人気に。お父様との距離は縮まりましたか?
「NHKのお笑い番組に呼ばれたり民放のドラマで松たか子さんと共演したりしたことで、おやじの見る目も変わったみたいで。大阪の楽屋に弟が現れて『帰っていいと言っているぞ』って。数年ぶりで、おやじは『なんか頑張っているみたいやな』。コントのキャラのことはよく分からなかったみたいですが……」
「それからも、近づいたり離れたりの繰り返しでした。おやじががんになってからですかね、お笑いのこととかを普通に話せるようになったのは。おやじが亡くなる前『あいつはやると思ってた』と言っていたと、おかんから聞かされました。葬式の時は泣けてきておえつが止まりませんでした。『おやじに認めさせたい』というのが原動力だったのかもしれません」
――お母様はその後いかがですか。
「一歩下がっておやじをたてるタイプのおかんは、『お父さんの家を最後まで守る』と言って、今も実家で暮らしています。あのおやじにしてこのおかんありで、意固地なところがありますが、そうした夫婦の絆は格好いいなと思います。いずれ僕も結婚して孫を見せてあげなきゃなとは思いますよね」
(聞き手は生活情報部 河野俊)
[日本経済新聞夕刊2020年2月18日付]
ワークスタイルや暮らし・家計管理に役立つノウハウなどをまとめています。
※ NIKKEI STYLE は2023年にリニューアルしました。これまでに公開したコンテンツのほとんどは日経電子版などで引き続きご覧いただけます。