広告嫌いだった中島信也 葛藤克服した資生堂の乙女CM編集委員 小林明

本社の仕事部屋でも時々、ギターを弾くという東北新社副社長の中島信也さん

漫画家、ミュージシャンなどとして活躍するみうらじゅんさん、工業デザイナーの奥山清行さんと武蔵野美術大造形学部(視覚伝達デザイン学科)で同級生だったというCMディレクターの中島信也さん(東北新社副社長)は、青春時代を振り返りながら「広告やデザインはウソ臭くて嫌いだった」「音楽でメシを食うのが夢。就職するつもりは全然なかった」などと意外な心境を告白する。

なぜ嫌いだった広告業界に入ることになったのか? ヒットCMを生み出す秘訣や心の中に抱いていたジレンマとは何か? フリーにならず、東北新社副社長にまで登り詰めた現在の心境は? 前回の「みうらじゅんの落第救った 中島信也の武蔵美時代」に続き、インタビューの後半をお届けする。

「作品を貸して」の依頼断る、辻つまあわせで博報堂を受験

自分も気が進まないまま、入社試験を受ける羽目になったという

 ――そもそも広告が嫌いだったのに、どうして東北新社に就職したんですか。

「それはまったくの偶然です。武蔵美で気の合うバンド仲間3人(中山昌士、小林豊、栗原正己)とデザインのチームを結成し、新聞広告の課題などに応募していたんですが、結構評価が高くて、クラスでも一目置かれたりしていたんです。でも4人とも就職するつもりはサラサラなかったので、友人に『電通を受けたいから、面接用に作品を使わせてもらえないか』と頼まれてしまった。『でも、さすがにそれは良くない』と思い、とっさに僕は『ごめんな、実は中山君が電通を受けるんや』と出任せのウソを言い、作品を貸すのを断りました」

芸術祭で歌う中島さん(左)(武蔵美3年、右は栗原正己さん、写真は中島さん提供)

「とはいえ、相手に受験すると宣言した以上、その辻つまだけは合わせないといけない。そこで中山君に頭を下げて事情を説明し、『申し訳ないけど、形だけでもいいから電通を受けてくれへんか』と頼みました。最初、中山君は憤慨していましたが、やがて『分かった。じゃあ、俺は電通を受けるから、信也もどこかを受験しろ』と交換条件を出してきたので、僕も気が進まないまま、受験する羽目になった。結局、チーム4人のうち栗原君(現在、作曲家・プロミュージシャンとして活躍)を除く3人が入社試験を受けます」

電通に決まりかけるも横やり、最終的に東北新社へ入社

――それぞれどこを受けたんですか。

「中山君は電通、小林君は資生堂、僕は博報堂。実は父が博報堂(大阪の営業部門の本部長)にいたこともあり、あまり深く考えずに博報堂を受けることにしたんです。父に内緒で……。でもそれが途中でばれてしまい、父が僕の受験を嫌ったのか、それとも親子入社禁止というルールがあったのか、事情はよく分かりませんが、結局、僕は博報堂を途中で辞退しなければいけなくなった。それで、僕を面接していた博報堂のクリエーティブの方が東北新社に紹介してくれたんです」

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「広告はイメージ作る偽物」、どう落とし前つけるかが