なぜ孔子は弟子に恵まれたのか 史記が選んだ理想の師司馬遷「史記」研究家・書家 吉岡和夫さん

「不容何病」(書・吉岡和夫)
「不容何病」(書・吉岡和夫)
中国・前漢時代の歴史家、司馬遷(紀元前145年ごろ~同86年ごろ)が書き残した「史記」は、皇帝から庶民まで多様な人物による処世のエピソードに満ちています。銀行マン時代にその魅力にとりつかれ、130巻、総字数52万を超す原文を毛筆で繰り返し書き写してきた書家、吉岡和夫さん(80)は、史記を「人間学の宝庫」と呼びます。定年退職後も長く研究を続けてきた吉岡さんに、現代に通じるエピソードをひもといてもらいます。(前回の記事は「『出世』しなかった孔子の夢 素顔の聖人、史記が刻む」

前回は孔子(紀元前551年ごろ~同479年)が肩書や高い報酬を得る「出世」とは縁がなかったことにふれました。しかし、だからといって孔子が周囲から疎外されていたわけではありません。むしろ愛すべき弟子たちに恵まれていました。今回は師弟関係や後進の育成について考えてみたいと思います。

逆境で乱れず、ぶれず

中国には古来、武術でも思想家でも多くの流派がありました。「諸子百家」と呼ばれる思想家たちの代表格が儒家であり、その始祖が孔子でした。怪しげな流派もありましたが、孔子のような人格・名声を慕う若者は多くいたと思われます。史記は孔子の弟子を「三千」と記し、「六芸」(通常は礼儀作法・音楽・弓術・馬術・書・算術)に明るい者だけでも70人余りいたと伝えています。もっとも「三千」というのは多数であることを表現する1つの単位のようなもので、正確な人数などつかむことはできませんが、仕官のきっかけを得る、あるいは自分の才徳を磨こうとする若者が詰めかけたことは容易に想像できます。

孔子と弟子の一行は諸侯(諸国の君主)に用いられようと各地を巡りましたが、自分の立場が危うくなるのを恐れたそれぞれの国の実力者らに仕官を阻まれます。それで他国に移ろうとすると、それも邪魔されました。大国の楚(そ)に向かう途中では、小国の陳(ちん)や蔡(さい)の追っ手に包囲されたこともありました。食料も尽き、危険な状態に陥りますが、孔子はひとり琴を奏でて歌い、気力の衰えをみせません。弟子の中でも直情家で知られる子路(しろ)は孔子に食ってかかります。「君子と呼ばれる立派な人物が、こんなに苦しむことはないはずだ」と。孔子は答えました。
 君子固(もと)より窮す。小人は窮すればここに濫(らん)す。
君子といえども困窮することはあるが、そんなことでガタガタしない。つまらない人間ほど困窮するとパニックになってしまうものだ――。子路はこの言葉を聞き、敬愛する師に恨みがましい文句をぶつけたことを恥じたと思われます。
放浪の旅には、弟子たちも不安や不満を感じることが多かったことでしょう。それを察した孔子は一人ひとり弟子を呼び、詩の一節を引用しながら問いかけます。「野牛でもなく虎でもない私たちがなぜこんな荒野をさまよう必要があるのだろうか?」
イラスト・青柳ちか

子路は「私たちがまだ仁者でなく、知者でもないからでしょう」と答えました。実務にたけた子貢(しこう)の答えは「先生の道は大きすぎて天下に入れられるのは難しいのです。その道を少しレベルを下げて世に入れられるようにした方がよいのではありませんか」。これはあまりに現実的で、孔子はものたりないものを感じました。そして、その才を最も愛した顔回(がんかい)に同じことを尋ねます。顔回は答えました。
 (い)れられざるは何ぞ病(うれ)へん。容れられずして然(しか)る後に君子たるを見る。
世に受け入れられないことは、気にすることではありません。受け入れられないからこそ、君子の道であることが証明されるのです――。孔子はこれを聞いて「おまえがお金持ちだったら、私はおまえの番頭になりたい」と笑みを浮かべて喜びました。そして窮状を打開していきます。
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