
ジャズエイジともぐり酒場
アルコールを求める客は、「スピークイージー」や「ジン・ジョイント」と呼ばれたもぐり酒場に足を運んだ。ニューヨーク市では、1920年の禁酒法が施行される前の段階で1万5000軒の酒場(サルーン)があったが、法案の通過後に激増。正確な数については諸説あるが、歴史研究者は店の数を3万2000軒から10万軒の間だとみている。安酒を売る質素な店から、カクテル、ジャズ演奏、ダンスなどが売りの洗練されたナイトクラブまで、さまざまな店があった。
密造酒が横行した1920年代は「ジャズ・エイジ」と呼ばれるようになった。小説「グレート・ギャツビー」(1925年)を書いた作家、F・スコット・フィッツジェラルドの造語だ。この時代、女性は1920年に参政権を得たこともあり、自由を享受した。女性たちはカクテルを飲み、古い社会慣習をはねのけて、禁酒法時代の文化を謳歌した。「フラッパー」(おてんば娘)と呼ばれた彼女たちは、髪をショートカットにし、丈の短いゆったりとしたラインのドレスを身にまとい、たばこを吸ってダンスに興じた。
大失敗に終わった「高貴な実験」

犯罪シンジケートは、地元当局を買収して勢力を拡大し、権力を手にしていた。密売を阻止するのは不可能だと分かり、特に都市部の世論は禁酒法反対に転じた。1927年の時点で、「高貴な実験」が大失敗なのは明らかだった。禁酒法を終わらせるのに必要なのは、憲法修正だった。
1932年の大統領選で、フランクリン・D・ルーズベルトが現職のハーバート・フーバー大統領に圧勝すると、変化が起こった。1933年2月、上下両院は修正第21条の案を可決し、批准のため各州に送付。この年の12月までに速やかに批准された。こうして修正第21条によって修正第18条が廃止され、高貴な実験は終わる。
禁酒法の廃止は政府にも利益をもたらした。当時、国を苦しめていた大恐慌との戦いに、アルコールからの税収が役立ったのだ。大衆文化も世の中の心情を反映していたようだ。「Happy Days Are Here Again」(楽しい日々が帰ってきた)、「Cocktails for Two」(2人でカクテルを)といった歌が響き渡り、誰もがこうした歌を口ずさんだという。
(文 ENRIC UCELAY-DA CAL、訳 高野夏美、日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック 2020年1月20日付記事を再構成]