作家・上橋菜穂子さん 画家の父にもらった創作の土台
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は作家の上橋菜穂子さんだ。
――お父様は洋画家の上橋薫さんです。仕事ぶりをどう見ていましたか。
「父は10代で福岡から単身上京し、絵筆一本で生きてきた人です。才能がすべての厳しい世界で、朝から晩まで絵と向き合い、道を切り開いてきました。家族を養い私と弟を大学院まで行かせるのは、綱渡りのような大変さだったと思います」
――作家になるうえで影響を受けましたか。
「父のアトリエが実家の2階にあり、創作の喜びも苦しみも間近で見ていました。幼い頃からどんな形にせよ、頭の中の物語を世に出す仕事をしたいと思っていました」
――お父様と同じ画家は志さなかったのですか。
「実は10代の頃は漫画家になりたいと思っていましたが、両親に猛反対されました。(才能だけが頼みの)自由業の厳しさを知っていたからでしょう。それに父は『絵の構図が正しくない』の一点張りで、私が漫画の魅力を説いても納得しませんでした」
「私がローマ時代のコインを模写していた時、父がやって来て同じものをささっと描いたことがあります。それと見比べて、才能の残酷さを感じ、漫画家の道は一瞬にして消えました」
――絵でなく文学で表現するようになったのですね。一方、文化人類学者としても活動しているのはなぜですか。
「知らない世界に触れて知見を広げることで、自分が描く物語に生かしたいと思ったからです。好奇心旺盛で向学心が強かった両親にとって、学者になることは誇りでもあったようです」
「本が売れるようになってからは、作家としても親孝行できたかなと思っています。かつて漫画家になることに猛反対した両親ですが、小説がテレビアニメになった時には毎週喜んで見てくれました」
――小説を書いていて、お父様のことを思い出す瞬間はありますか。
「父は絵が完成すると必ず母に見せました。母の意見を受け止め、アトリエに戻って絵を直すこともあり、子供心に『なぜ素人に意見を聞くのか』と不思議でした」
「作家になって、自分が何を書いているのか見失うことがあります。ほかの人の言葉で初めて、私以外にはこう見えるのかと気づかされることも多いです。父は母の目を借り、一度自分の外に出て、違う視点で作品を見たかったのだと気づきました」
「ただ人の意見をうのみにしてしまうと、私の作品ではなくなる。吟味したうえで自分の力で直す。それが創作で生きる者の営みなのだと、父と自分を重ねて感じます」
――お父様から多くのことを学んでいたんですね。
「父からもらったのは人間として、作家として生きていく土台です。言葉にしつくせないほど感謝しています」
(聞き手は生活情報部 田中早紀)
[日本経済新聞夕刊2020年1月28日付]
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