
そんな2人が今も当時と変わらずリンゴやカキなどを作り続けている。それは決してたやすいことではありません。その間、少しずつ品質の改良に向けた工夫を重ね、料理人らの間にしっかりと信頼関係を築き上げてきたからこそ成せるワザなのです。
伝統の味を守りつつ、時代のトレンドもうまく取り入れながら料理も進化させていく努力をしないと、店の看板を守り続けるのは難しい。レストラン経営だって、同じことがいえるのではないでしょうか。
――ジャポニゼには及びませんが、「オテル・ドゥ・ミクニ」開業の翌年に「皿の上に、僕がある。」(以下、皿僕)という一冊を出されています。それ以降のこれまでのシェフ人生を振り返ってみていかがですか。
皿僕の表紙はあごひげに手を当て、眉間にしわを寄せた僕のポートレート写真でした。今の僕と比べ、身も心も随分ととんがっていたな、と感じますね。欧州の数々の三つ星レストランで修業経験を重ねたオーナーシェフと、マスコミには好意的に紹介されていたのに、料理評論家と呼ばれる人たちの評価は当時、散々なものでしたから。「正統派フランス料理とはおよそかけ離れたシロモノ」などとバッシングの嵐の中で身構え、必死に鎧(よろい)をまとっていたからかもしれません。
白い皿に盛れば料理は映えるので、皿僕の料理写真はすべて白い皿を使いましたが、今回はすべて茶色の備前焼の器に盛りつけています。土を思わせるようなマットな備前焼はきっとフランス人にも受けるはず。ジャポニゼが世界唯一の料理本の賞「グルマン世界料理本大賞2020」にも輝き、「傑作」と評価されたのは、まさにしてやったり、という思いです。カメラマンをはじめ皿僕と同じ編集スタッフでジャポニゼを作れたのも、みんな生きてくれてありがとう、ですね。
――次回は、今後の食のあり方についてお聞きします。
1954年北海道・増毛町生まれ。中学卒業後、札幌グランドホテルや帝国ホテルで修業した後、駐スイス日本大使館の料理長。大使館に勤務する傍ら、欧州の三つ星レストランなどでアラン・シャペルといった有名シェフにフランス料理の神髄を学ぶ。帰国後、1985年に東京・四ツ谷に「オテル・ドゥ・ミクニ」をオープン。九州・沖縄サミット蔵相会合では総料理長。2013年フランソワ・ラブレー大学にて名誉博士号を授与される。15年フランス・レジオン・ドヌール勲章シュバリエを受章。現在、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会顧問や国内各地の食大使などを務め、子どもの食育活動などにも取り組む。
(堀威彦)