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壊滅状態の職員室から高3の「調査書」を発掘しなければならなかった=灘中学校・高等学校提供

壊滅状態の職員室から高3の「調査書」を発掘しなければならなかった=灘中学校・高等学校提供

1995年1月17日に発生した阪神大震災は、神戸市に立つ灘中学校・高等学校をも襲った。当時、生まれてもいなかった現在の在校生には遠い話だが、その記憶と教訓は和田孫博校長らによって語り継がれている。灘の歴史の一部である大震災の経験は、どう息づいているのか。教育ジャーナリストのおおたとしまさ氏がお届けする。

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体育館に遺体を安置

1995年1月17日未明、灘を激震が襲った。阪神大震災である。灘がある神戸市東灘区は最も揺れが大きかった地域で、当時のニュースでも、灘周辺の悲惨な状態が映像でくり返し映し出されていた。

直接の学校関係者に幸い犠牲者は出なかった。ひびが入ったところなどはあったが、校舎もなんとかもちこたえた。ただし、職員室の中はまるごと大きなミキサーにかけたかのように机も棚も書籍もごちゃまぜになり復旧には相当な時間を要する状態だった。

あれから25年。中1の1学期の道徳の授業で、和田孫博校長は毎年あのことを生徒たちに話す。あの悲惨な震災は、灘の歴史の一部として語り継がれている。和田さんが当時を振り返る。

1月17日。「私自身は大阪に家があるので、この地域の激震を体感してはいないんです。当時は管理職でも何でもない教員でしたが、大変なことになったと思ってタクシーですぐに学校に向かいました。車が通れたのは途中まで。残りは1時間ほど歩かなければなりませんでした。学校のまわりはどこが路地だったかすらわからない状態でした」(和田さん)

宿直の用務員さんが自分の判断で体育館を開放し、近隣の避難者を受け入れていた。朝9時には、体育館を遺体の安置所として使わせてほしいと、区役所から連絡があった。和田さんが学校に着いたときには、講堂も柔道場もほぼ避難者で埋まっていた。第2グラウンドも車で来る避難者のために開放した。昼すぎには最初の遺体が体育館に入る。

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