震災で体験した、前に出る仕事

机を拭きお茶をいれ、男性が作った書類を清書する。先輩たちがしていた仕事を、疑うことなくこなしていた。しかし、「たぶん暇だったんですね。時間をかけてきっちり仕事するタイプの女性もいましたが、私はササッと仕事を終わらせるほうで、時間が余っていたんです」。時間を持て余す陶山さんをみて、先輩男性が声をかけた。「約款、読んでみたら?」

保険商品のすべての条件を記した約款は、読み物として面白くはない。だが、数学が好きだった陶山さんは約款に数学的な構造を見つけた。「1条1項に『こういうことがあったら発動する』という基本が書いてあるのですが、その後に免責、特約など、いろいろなカスタマイズが書かれています。カスタマイズされたところを把握していないと、お客様にお勧めすべき商品を誤ることになりかねません。どこかパズルのような面があって、興味津々で一時期は読みあさりました」

20歳代で結婚、出産も経験したが、当時は珍しかった産休を取得し、仕事を続けた。転機は95年の阪神大震災だった。保険金の支払い統括部門にいた陶山さんは、当時まだ一般職だったものの、部署では経験を積んだベテランになっていたので、対策本部を立ち上げるという大仕事を任された。

大事な仕事を任せてもらえて、「青天井」の可能性を実感できたという

「保険金支払いをできるだけ速やかに進め、お客様の力になることが、当時の損保会社の大命題でした。当時、支払い統括部門でも火災保険の担当はわずか10人ほど。もう、男性も女性もない。一般職だろうと関係ないという状況でした」

陶山さんが先頭に立って、大阪と神戸に立ち上げる対策本部に送り込む人員や物資の手配を指示した。「人のシフトを作るだけではなく、車やバイクの手配、カップめんの用意、防寒具・作業着の送り先などを、すべて私が指揮して決めなければなりませんでした」

人員を出してもらおうと、支社長などに電話しても、かかってきた電話が女性の声だったことをいぶかり、「なんで女性が電話してくるんだ」と、電話を切られることもあった。しかし、当時の上司がすぐに電話をかけなおしてくれた。「『陶山は部長の代わりだ』と伝えてくれましてね。電話をガチャッと切ったりして」

後輩と3人で大仕事を終えたとき、陶山さんの中でもやもやが消えたのだという。「それまでは一般職だから、やりたくても権限を与えてもらえないこともあった。対策本部の立ち上げで仕事を任せてくれる上司の姿を目の当たりにして、この会社は本当に青天井なんだなと思えた」という。総合職への転換を決めた。38歳だった。

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後から穴埋めした「スタートでの出遅れ」