教育改革実践家・藤原さん 父と正反対めざしたが…
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は教育改革実践家の藤原和博さんだ。
――どんな家庭で育ったのですか。
「父は最高裁判所で働く公務員、母は専業主婦で、僕は一人っ子でした。東京都世田谷区の『公務員村』と呼ばれる団地に住んでいました。当時は電話を借りたり、みそやしょうゆを融通し合ったりする下町のようなコミュニティーが形成されていて、年齢の離れた子供たちが一緒に遊んでいました。お兄ちゃん、お姉ちゃんと呼んでいる子のうちで一緒にお昼を食べることが多く、一人っ子という気がしませんでした」
――子供のころは、よく遊んだそうですね。
「夕方まで家に戻らず、三角ベースの野球をやったり、秘密基地を作ったり。遊びの王者と言われていました。一方、オルガンや習字など習い事もいろいろしました。小学校高学年になるとアマチュア無線の免許もとりました。『やりたいということは、可能な限りやらせてやれ』と父が母に言っていたようです」
「子供時代、好きなことに安心して打ち込めたことが、大人になって生きていると思います。ほかの人が尻込みするような前例のないことに挑戦できるのは、子供のときに何でもやらせてもらい『根拠のない自信』が形成されたおかげだと思っています」
――成長する過程で、ご両親からの影響は。
「父は戦争から九死に一生を得て帰ってきた人で、何事にも厳格でした。僕から相談を持ちかけることはあまりなかったです。歌舞伎役者の家など、親の仕事をいや応なく引き継ぐ運命の子供もいますが、僕は公務員だった父と正反対の方向を目指し、起業家が率いる民間企業のリクルートに入社しました」
「いまの自分の半分は、リクルートに作ってもらったと思っています。でもリクルートを辞めた後、中学・高校の校長を務めて地域社会の力を引き出そうとするなど、結局は社会性のある分野に関心が向いています。お金もうけに徹することができないところは、公務員のせがれの限界かもしれません(笑)」
「専業主婦だった母はいつも家にいました。いろんな習い事をさせてくれて、寝る前には少年少女世界文学全集を読み聞かせてくれました。毎日身近に接していた母のことばかりが、今でも思い出されます」
――お父様は昨年亡くなられました。
「僕が奈良市立一条高校の校長として奈良市に赴任した時、近鉄奈良駅近くの一戸建てを借りることができたので、久しぶりに両親と一緒に暮らしました。それまで東京のマンション住まいの時は一歩も外に出なかった父が、亡くなる前の1年間は(周囲にお寺が多い)極楽浄土のような景色に囲まれてゆっくり過ごしました。最後に親孝行ができたのはよかったです」
[日本経済新聞夕刊2019年12月10日付]
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