ナチスが生んだ悲劇 「狼の子」と呼ばれた戦争孤児

日経ナショナル ジオグラフィック社

ナショナルジオグラフィック日本版

ギゼラ・ウンテルシュパンさんは、ソ連軍が、東プロイセンの町ケーニヒスベルクに侵攻してきた際、家族と離れ離れになった(PHOTOGRAPH BY LUKAS KREIBIG)

太平洋戦争の開戦で大戦は世界規模に広がり、各地で様々な悲劇が起きた。戦争が終わっても、親を失った多くの子供たちは、戦後の混乱期を自力で生き抜かなければならなかった。ここで紹介する写真は、ナチス・ドイツがかつて支配した東プロイセン(現在のポーランド北部などの地域)で、親と離れ離れになったドイツ人の子供たちのことだ。彼らのその後を、写真家のルーカス・クライビッヒ氏の写真で見ていこう。

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社会から見捨てられ、まるで腹を空かせたオオカミのようにさまよい、森のなかで生き長らえた東プロイセンの子供たち。彼らは「オオカミの子供たち」と呼ばれるようになったという。

米ウィスコンシン大学の歴史学教授ミシェル・モウトン博士は、終戦直後の地政学的政策決定に関して、英国労働党が1944年に発表した声明文を引用し、次のように説明する。声明文のなかで労働党は「終戦直後、被占領国においてはドイツ人に対する根深い憎悪」が懸念されるため、ドイツ人は「移住するか大量虐殺されるか」のいずれかの選択を迫られるだろう、との考えを明らかにしていた。少なくとも建前上は「連合国側は大量虐殺を望まなかったため、移住することで合意した」という。

こうして、東プロイセンではドイツ人の追い出しが始まったが、それによって生じた混乱で家族は離れ離れになり、子供たちのその後の運命は大きく変えられてゆく。ソビエトの孤児院へ送られた子もいれば、隣国のリトアニアへ逃げ延びた子、東西に分割されたドイツへたどり着いた子もいた。数えきれないほどの子供たちが、その後不慣れな土地への同化を強いられながら成長することとなる。こうした行き先は、子供たちにとって必ずしも寛容な環境ばかりではなかった。

リトアニアへ逃げた「オオカミの子供たち」は、一番多感な時期に、自己意識を形成するのに重要な、言語、家族、住む場所を奪われた経験を持つ。そして、最低限の教育しか受けられず、過酷な状況の下で働き、社会から隠れるように暮らしてきた。手を差し伸べてくれるリトアニア人もいたが、そうした支援すら、ある日突然途絶えてしまうことがあった。リトアニアは当時、ソビエトの支配下にあり、政治や社会からナチスの影響を徹底的に排除し、ドイツ人の連帯責任を追及するソ連の政策に追従していた。ドイツ人の子供たちは、かつて自分たちを優遇するために設計された体制の崩壊によって、まったく逆の立場に置かれることになった。

写真家のルーカス・クライビッヒ氏は「オオカミの子供たち」について最初にどこで読んだのか記憶していないが、彼らの知られざる物語は、同氏の心に強烈な印象を残した。デンマーク・メディア・ジャーナリズム学校で学んでいたクライビッヒ氏は、2017年に始めた写真プロジェクトを通して、東プロイセンの子供たちのその後をもっと知りたいと思った。調べていくうちに、オオカミの子供たちに関する本を出版した写真家のクラウディア・ヘイネルマン氏に出会った。

ふたりは、ルイーズという名の元オオカミの子供の協力を得て、他のオオカミの子供たちを紹介してもらった。そして、ふたつの別々のプロジェクトをスタートさせた。クライビッヒ氏はプロジェクトが2本進行することに関して「彼らの物語と人生が様々な形で伝えられれば、より多くの人々に知ってもらえます」と語る。

悲惨な戦争の最後の目撃者である子供たちのことをぜひとも伝えたい、と強く感じたクライビッヒ氏は、歴史の陰に隠されていたオオカミの子供たちの老いゆく姿を、素顔のまま撮影することにした。

ギゼラ・ウンテルシュパンさんの戦争の傷はまだ癒えていない。孤児として育ったつらい経験が、誰にも顧みられることがなかったと感じている(PHOTOGRAPH BY LUKAS KREIBIG)

リトアニア南部ののどかな田舎町で、クライビッヒ氏が最初に話を聞いたのは、ギゼラさんという女性だった。1945年、14歳だったギゼラさんは祖母が目の前で餓死するのを見て、ソ連軍による「死の行進」から逃げ出した。いったんは東プロイセンのケーニヒスベルクへ戻ったが、より良いチャンスが待っているとのうわさを頼りに、リトアニアへ向かった。リトアニア語を習得し、ソビエトの集団農場「コルホーズ」で働いている時に夫と出会い、一男一女をもうけた。そこでの生活と労働はつらい経験だった。当時のことは忘れてしまいたいが忘れられないと、ギゼラさんはリトアニア語で語る。「記憶は、傷跡のように残るものですから」

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