温かな麦ごはん、無罪の支え 村木厚子さん
食の履歴書
厚生労働事務次官を務めた津田塾大客員教授の村木厚子さん。官僚、そして母として充実した日々が冤罪(えんざい)事件によって暗転した経験を持つ。164日間に及んだ拘置所暮らしは家族や知人の励ましに加え、食に支えられた。
2009年6月、障害者団体向け郵便料金割引制度の悪用にからむ事件で逮捕。偽造証明書の発行を指示したと疑われた。心底ショックだったが、悲嘆に暮れていたわけではない。「どうしたら真実を説明できるか」。取り調べを受けるのは、緊張の連続だった。
取り調べが終わっても勾留は11月まで続いた。その間、生活のリズムを守ったのが食事だ。午前7時半に点呼後、朝食をとる。昼食は正午、夕食は午後4時ごろから。素早く食べないと下げられてしまうため、畳2畳ほどしかない独居房で黙々と食べた。
食事の内容に特段不満はなかった。「コッペパンとゆで卵、ぜんざいなど不思議な組み合わせもあったけれど、平均点が高かったです」。温かいまま出され、栄養バランスがよい。例えば7月のある日。朝には魚のフレークとキュウリの漬物、サトイモと油揚げの味噌汁が出た。昼食はマグロの竜田揚げ、青菜のおひたし、切り干し大根の煮物。夕食は焼き肉、キュウリの塩もみ、モヤシのナムル、スイカ――といった具合で、一汁三菜の場合もある。
秋にはサンマの丸焼き、祝日におはぎやまんじゅうが出た。入浴は週2~3回、廊下を歩くときはよそ見してはいけないなど自由が制限され、外界から閉ざされた日々。食事は移り変わる季節を感じる手段だった。
なかでも気に入ったのが麦ご飯だ。麦の食感がよく、温かくておいしい。「おなかの調子がよかったのは麦ご飯のおかげかもしれません」。差し入れの果物も楽しみの一つだった。持ち込める食品は差し入れ店で買ったもののみ。包丁が使えないので、手でむけるかんきつ類などが生活を潤してくれた。
午後9時に就寝する決まりだ。幸い不眠に悩まされることはなく、普段より睡眠は取れていた。夫や2人の娘が心の支えとなったほか、友人知人から500通の手紙が届き、70人が面会に来た。大阪拘置所は冷暖房設備がなく、真夏は35度近くまで気温が上がる過酷な環境だった。だが、多くの励ましを得て「食べていれば大丈夫」と思うことができた。
寒くなり、さすがに不安を覚え始めた11月、ようやく保釈が認められた。保釈会見を終え、東京に戻る新幹線で弘中惇一郎弁護士や家族と飲んだ缶ビールの味は忘れられない。久々の自由が体に染み渡るようだった。
自宅に戻ったらやりたいことがあった。当時高校生だった次女の弁当づくりだ。仕事に子育てに忙しい日々、料理は気分転換を兼ねてするものだった。肉じゃが、コロッケ、茶わん蒸し――。「みんな食べるのが好きだから、ほかの家事の手間は省いて料理をしてきました」。だが、保釈直後は体力、気力ともに落ちていて、料理もままならない。弁当づくりを再開できたのは1カ月ほどたってからだ。
続く裁判では、関係者の供述調書が検察官の誘導により強引に作成されたものであったことが明らかになった。10年9月に無罪判決が出て、検察は控訴を断念。無罪が確定した翌日、官僚としての猛烈な生活が再び始まった。
だが、本当に事件が終わったのはもう少し先だった。その後1年半くらい深い喜びや悲しみを感じず、感情の幅が制限されているような不自然な精神状態が続いた。パリン。ある日ガラスが割れるような音が聞こえ、ようやく本来の自分が戻ってきた。「無罪を得ても、ぬか喜びしてはいけないと、プレッシャーがかかっていたんですね」
拘置所にいるときに気になる風景があった。食事を配膳してくれていたのが、幼さが残る女性たちだった。取り調べの合間に検事に事情を聞くと受刑者で、「麻薬や売春が多い」という。「罪を犯すようには見えないのに、なぜ」。疑問が膨らんだ。
第二の人生は官僚時代にやりきれなかった福祉の仕事を深めている。作家の瀬戸内寂聴さんとともに、少女や若い女性を支援する一般社団法人若草プロジェクトの呼びかけ人になった。生きづらさを抱えた女性たちのSOSをすくい上げ、社会とつなぐ。拘置所での食の風景が今につながっている。
好みを丁寧に聞いてくれるすし
東京・丸の内の新丸ビルにある「たる善」(電話03・5218・7007)は札幌市に本店を置くすし店だ。村木さんは弘中弁護士の紹介で弁護団と訪れて以来、家族とたびたび足を運んでいる。
もともと脂がのった魚が苦手で、あまりすしを好まない。だが、それぞれの好みを丁寧に聞いてくれるので「この店は例外」なのだという。「よく注文するのはエビや貝、ウニかな。酒のサカナや突き出しもおいしいんです」
同店のすし職人の中村武宣さんは「ウニやイクラなど北海道で調達するネタが強み」と話す。サンマと入れ替わり、生のニシンが入ってくるのは北海道が拠点の店ならでは。ランチではネタをぜいたくに使った「北の極み丼」(3080円)が看板メニューだ。
最後の晩餐
家庭料理がいいですね。その中で何か、というと……コロッケでしょうか。我が家では、つぶしたジャガイモにひき肉、みじん切りにしたタマネギとニンジンを入れます。手間がかかるけれど、揚げたては最高。自分が元気だったら自作して家族と食べたいです。
(天野由輝子)
1955年高知県生まれ。78年に労働省(現・厚生労働省)入省、女性政策や障害者支援に携わる。2009年に逮捕・起訴されるが、10年9月の裁判で無罪確定。13年7月厚生労働事務次官に就任し、15年10月に退官した。17年4月から津田塾大客員教授。
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