法政大総長・田中さん 父の勧め「好きなことのそば」
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は法政大総長の田中優子さんだ。
――ご両親は教育熱心だったそうですね。
「私が中学生のころ、空調関係の中小企業で機械設計をしていた父が独立しました。父の会社は間もなくつぶれ、その後はフリーで働いていました。借金を背負い大変だったろうに、私と5歳上の兄を私立の中学と高校に通わせ続けました」
「子どものためなら何でもする親で、兄が高3になって大学の受験勉強を始めると、平屋の長屋だった家を2階建てに建て替えて勉強部屋を用意したほどです」
――背景には何があったと思いますか。
「自分が勉強したくてもできなかったから、その夢を子どもに託していたのかもしれません。父は幼いころ父親を亡くし、経済的事情で小学校しか出ていません。本当は物書きになりたかったようです」
「好きな本が読めるだろうと思い、父はまず書店に就職しました。でも仕事だから本なんて読む暇はありません。そこで検定試験を受けて高校卒業の資格を取り、東大の用務員を経て民間企業に職を見つけました。その時々の状況で勉学に励み、生きる道を開いていった人でした」
――ご自身は江戸時代など近世文化の専門家として知られますが、研究者を志したきっかけは何ですか。
「父の影響が大きかったと思います。本をとにかくよく読む人でした。台所と二間だけの狭い家でしたが、本棚は両親の蔵書であふれ、そこに兄の本が加わりました。皆で古本屋に行き面白そうな本を探すのが、我が家の休日のレジャーでした」
「そんな環境の中で私は自然に本が好きになりました。大学受験が近づいても、勉強もそこそこに、本ばかり読んでいる空想癖のある少女でした。高校の国語の教師から『自由な空気がある法政大の日本文学科が、あなたには合う』と勧められて、そこに進学しました」
――お父さんから何かアドバイスはありましたか。
「私が文学をやることに理解を示して、『自分がやりたいと思っていることの近くにいなさい』と言ってくれたことが記憶に残っています。『好きなことで食べられる人なんてそうはいない。でも好きなことのそばにいることによって救われることもある』って。法政大は私にぴったりで、自分の道を見つけることができました」
「父は72歳で白血病で亡くなりました。晩年の5年間は、能の謡(うたい)に没頭していました。謡跡(ようせき)巡りといって、謡曲に出てくる場所を訪ね、能の舞台で実際に謡を披露したこともあります。本当に楽しそうでした。文字に囲まれているのが好きな父にとって、好きなことのそばまで行けた瞬間だったのではないでしょうか」
[日本経済新聞夕刊2019年11月19日付]
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