しゃべるシロイルカ、ナックに会う 水中マイクで返事
東海大学 海洋学部 村山司(1)
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イルカと話しがしたい――。高校生の時に映画「イルカの日」を見てそう思って研究者を志し、20年以上イルカと話す研究を一歩一歩進めてきた東海大学海洋学部の村山司さん。そのパートナーであるシロイルカの"ナック"と村山さんに会いに水族館へ行ってみた!(文 川端裕人、写真 的野弘路)
とある春の午後、千葉県鴨川市にある鴨川シーワールドにて、こんなセッションが行われた。
女性のトレーナーが、オスのシロイルカ、ナックに「オハヨウ」と呼びかけると、「オハヨウ」と返事がすぐに戻ってくる。
子音が不明瞭で分かりにくいけれど、抑揚はまったく同じだ。
一方で、「オウ」といったかけ声は、ずっと聞き取りやすい。まさに呼べば応える、というふうな完璧な応答だ。「アワワワワ」と女性が言うと、やはり同じように、適切な抑揚とリズムで返事がある。ウグイスの鳴き声を真似た「ホーホケキョ」では、「ホー」と「ホケキョ」の間の「ため」の部分で、いったん声を止める、というところまで絶妙のタイミングで再現した。
なにやら思い出すのは、人間の赤ちゃんが、むにゃむにゃという喃語の世界から出て、はじめて言葉を話し始める時のこと。混沌とした音の連なりが、突然、分節した言語として聞こえてくると、「あ、今、しゃべった!」という新鮮な驚きと感動があるものだ。
ナックとのセッションは、さらに続く。トレーナーが「ピヨピヨ」と言い、素早く帰ってきた反応が、ぼくの耳には「完璧なピヨピヨ」に聞こえた。今まさに目の前にいる愛くるしい生き物が「しゃべっている」と、もはや理屈ではないレベルで納得させられてしまった。
ナックは、トレーナーの呼びかけに反応していたわけだが、別に相手は問わない。現在、鴨川シーワールドでは、ナックによるパフォーマンスを毎日行っており、その都度、水中マイクを通じて、来館者と掛け合いをする。その時にマイクの前に立つのが、女性だろうが男性だろうが、子どもだろうが大人だろうが、ナックは同じように、言葉を聞いた上で、模倣する。
ぼくが観覧した時には、未就学児がマイクの前で「おはようー」とかやっていた。ナックはその抑揚をうまく再現して「返事」をしていた。場内は、大いに沸いた。シロイルカのナックから発せられる鳴音が、人間の言葉の真似として受け取られ、さらには「イルカがしゃべっている!」というふうにも認識されて、衝撃を与えたのだと思う。
以上のような描写、あるいは、紹介した動画を「もう知っていたよ」と思った人は多いだろう。というのも、昨年(2014年)の8月、ナックによる人間の言葉の模倣についての論文が、国際比較心理学誌に掲載され、その際に、テレビのニュース・情報番組(NHKとすべての民放キー局!)や新聞で報道されたからだ。ポータルサイトのニュース欄でもトップに出ていた。論文の著者である村山司教授(東海大学海洋学部)は、しばらく各種メディア対応に忙殺されることになった。
その際、生き物好きのぼくとしては、ニュースを横目で見ながら、「ここは慎重にならねば」と自分に言い聞かせた。
理由は複雑なのだが、そのうちひとつは、ジョン・C・リリー博士による1960年代の研究だ。「イルカがしゃべった」として一世を風靡したものの、結局は「人間の側の思い込み」に落ち着いた。「話しているか話していないか」というのは、聞き手の主観にも大きく左右される。人は聞きたいものを聞き取る傾向がある。
また、リリー博士のその後が、もの悲しい。大脳生理学者として信頼されていた研究者だったのだが、LSDやケタミンといった幻覚剤を自ら服用してイルカとコミュニケーションを図ろうとしたり、宇宙から地球に暗号でメッセージを送り続けている超越的な存在と接触してしまったり、むしろ神秘家として後半生を過ごした。リリー博士は、イルカの科学を神秘主義に接続した人物でもある。
1990年代には、イルカブームというものがあり(イルカがメディアジャックしたのではないかというくらい、テレビも雑誌も書籍も、イルカだらけだった時代があったのです)、イルカとテレパシーで話したなどと主張する神秘家がたくさん出た。その源流はリリー博士にあるとぼくは思っている。その一方で、リリー博士の出発点が科学的な研究だというのも事実であり、彼の本を読んでイルカやクジラの研究を志した人は結構いる。
ここではリリー博士だけに焦点を絞って書いたが、それでも充分複雑なのが分かっていただけるだろうか。少々、長い間、動物好きをやっていると、不自由にもこういうことが気になってしまうのである。
そして、それゆえ出遅れた。
出遅れつつも、やっと機会が巡ってきて、村山司教授の研究室、ともいえる、鴨川シーワールドを訪ねることができた。
結果、ぼくの耳は「イルカが人間の言葉の真似をしている」と聞き取った。「しゃべっている」とすら感じた。それはもう、自分としては疑いないレベルだった。でもぼくはまだ、この件について「自分の耳」を信じ切っていないのである。同じ場所にいた多くの人が、同じところで歓声をあげていたから、自分だけの思い込みというわけでもなさそうな気がするが、それでも、人はしばしば、聞きたいものを聞こうとする。まわりに引きずられもする。
ぼくが、論文をまとめた村山さんを前に、まずうかがったのは、その客観的な評価についてだ。論文を書き、瑕疵をついてくる海外の査読者を納得させて、専門誌への掲載にこぎつけた村山さんは、どうやって、その客観性を確保したのか。
村山さんは、ていねいな語り口で、辛抱強く説明してくれた。
「人間の言葉を真似しているというのを定量的に示したいわけですが、私が取ったのは2つのアプローチです。1つは録音した音を、実験の関係者ではない何も知らない人に聞いてもらって、どう反応するか。もう1つは、周波数の解析などをして、ほとんどパターンが同じだと音響学的に示すこと、ですね」
ナックが真似をしようとしているとして、それが成立しているかどうかは、聞き手がどう受け取るかという問題だ。ナック側の模倣する能力と、聞き手の聞き取る能力が重なって、はじめて模倣は成立する。どれだけ多くの人が予備知識なしに、これを「真似」と受け取るかというのは重要な点だ。そして、もちろん、人間の呼びかけとナックの応答が、波形レベルでどれだけ似ているかという音響学的な探究も大事だ。こういった2つの方面から裏付けるというのが、村山さんの戦略だった。
「人に聞いてもらう方は、9人に参加してもらって、人間の呼びかけに対するナックの応答が、なんて聞こえるかを判別してもらいました。その結果、『オハヨウ』では8割以上、『ピヨピヨ』は9割以上が、似ていると判断しました。これは統計的にも、偶然出てくるものではないので、まずはひとつ人の耳では似ているということを押さえた、ということです」
さらに波形を見ての検討だが、動物が人の言葉を真似た時、どれだけ正確に真似ができているか評価する方法は、例えば、オウムや九官鳥などでの先行研究があるのだろうか。あるいは、外国語の学習者が先生の発音をなぞって発話する時にどれだけ似ているかを波形レベルで評価する方法などがあれば、応用できるかもしれない。
真似をしたという客観性をどうやって確保したのかまず聞いた。
「いろいろ調べたんですけど、標準的なやり方はないようなんです。そこで、私たちがやったのは、まずは波形を見て、人の側はこの周波数で話していて、これに対してナックはこの周波数で応答して、音の長さはこれくらいあって、音のまとまりがいくつあって、抑揚のパターンはこうなっていて……とひとつひとつ比べていったんです。たとえば、人間がピーって言うのが200ミリ秒だとすると、ナックは若干長くて220-230ミリ秒くらいで応答するとか一定の傾向もあって、これも統計的には偶然で有り得ないものだと言えました」
村山さんの論文は、英文の国際比較心理学誌に出たものなので、査読者も編集者も日本語とは違う音韻体系を母語とする人たちだったと思われる。日本語話者は「オハヨウ」「ピヨピヨ」を日本語の語彙にひきつけて聞き取ることで似ていないものを似ていると感じるかもしれない。客観的な評価には、こういった地道な波形レベルでの作業が必須で、村山さんの論文はそれをクリアした。
これで、やっと「イルカが人の言葉を真似した」と素直に言える。そして、現象としては「イルカがしゃべった!」ということでもある。本当にこれはすごいことだ。視界が悪い水中で、主に聴覚を駆使して音の世界に生きているだけあって、出せる音のバリエーションが多い。だから、これだけの模倣ができるのだろう。
そして、村山さんは、こう続けるのだ。
「イルカと話をする夢の実現に一歩、近づいたと思います」と。
さりげなく、大きなことを言う。
今、我々は、イルカが人の言葉を真似したことに驚いているところだ。なのに、村山さんは、さらに先に進んで、「イルカと話をする」と言うのである。
村山さんは、リリー博士が行き詰まった客観性の問題をどうクリアするつもりなのだろう。ここは、本当に重要な問題なのだ。
実は、動物の言語能力についての研究は、イルカではなく、チンパンジーなどの類人猿の方がさかんだ。リリー博士がイルカと会話しようとしていた1960年代には、チンパンジーに言語を教える実験も始まっていた。人間のような発声ができないので、言葉をそのまましゃべることはできないことはすぐに分かったが、手話を教えられたチンパンジーたちはかなりの語彙を習得した。また、日本にいる天才チンパンジーのアイ(京都大学霊長類研究所)は、手話ではなく文字による「言語」を学んだ。類人猿がある程度の言語能力を持っていることに疑いを差し挟む人はあまりいない。また、ヨウムなどインコ科の鳥が、模倣だけではなく、人と会話する、意思を伝えるという報告もある。いずれも、「動物と話す」というテーマを考える上では、重要なものだ。
そんな中、村山さんの研究は、類人猿の研究の延長にあるといえる。
「大学院のときに、チンパンジーのアイがいる京都大学霊長類研究所の松沢哲郎先生のところに教わりに行きました。手話ですとなかなか客観的な評価が難しいので、アイがやっている文字とか記号のアプローチで、こんなふうにやればいいんじゃないか、とか。松沢先生は、会話をしようというよりは、チンパンジーとヒトの機能の違いとか、そっちの方に研究が行くんですけど、私は、当時から、まずイルカと話したいと思っていて。今でも、松沢先生の論文を読み返したりして、勉強しています」
あっけらかんとして、爽快ですらある説明だ。
村山さんは、人間とはかけ離れた環境に住むイルカを相手に、本気、かつ、科学的に、ソロモンの指環を探そうとしている。
これは、じっくりお話を伺わなければならない。
(2015年5月 ナショナル ジオグラフィック日本版サイトから転載)
1960年、山形県生まれ。東海大学海洋学部教授。博士(農学)。1984年、東北大学を卒業後、1991年、東京大学大学院農学系研究科博士課程修了。水産庁水産工学研究所(現・水産総合研究センター)、東京大学を経て、現職。主に飼育下のイルカを対象に、認知機能やコミュニケーション能力を研究している。『イルカの認知科学――異種間コミュニケーションへの挑戦』(東京大学出版会)、『ナックの声が聞きたくて! "スーパー・ベルーガ"にことばを教えるイルカ博士』『海に還った哺乳類 イルカのふしぎ』(講談社)『続イルカ・クジラ学』(共著、東海大学出版会)など、著書多数。
1964年、兵庫県明石市生まれ。千葉県千葉市育ち。文筆家。小説作品に、『川の名前』(ハヤカワ文庫JA)、『天空の約束』(集英社文庫)、NHKでアニメ化された「銀河へキックオフ」の原作『銀河のワールドカップ』(集英社文庫)とその"サイドB"としてブラインドサッカーの世界を描いた『太陽ときみの声』(朝日学生新聞社)など。
本連載からのスピンアウトである、ホモ・サピエンス以前のアジアの人類史に関する最新の知見をまとめた近著『我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち』(講談社ブルーバックス)で、第34回講談社科学出版賞と科学ジャーナリスト賞2018を受賞。ほかに「睡眠学」の回に書き下ろしと修正を加えてまとめた『8時間睡眠のウソ。 日本人の眠り、8つの新常識』(集英社文庫)、宇宙論研究の最前線で活躍する天文学者小松英一郎氏との共著『宇宙の始まり、そして終わり』(日経プレミアシリーズ)もある。近著は、世界の動物園のお手本と評されるニューヨーク、ブロンクス動物園の展示部門をけん引する日本人デザイナー、本田公夫との共著『動物園から未来を変える』(亜紀書房)。
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