運転手は酔客の優しさに酔う タクシーと酒のこぼれ話鉛筆画家 安住孝史氏

上野・不忍池と東京スカイツリー(画・安住孝史氏)
上野・不忍池と東京スカイツリー(画・安住孝史氏)
夜のタクシー運転手はさまざまな大人たちに出会います。鉛筆画家の安住孝史(やすずみ・たかし)さん(81)も、そんな運転手のひとりでした。バックミラー越しのちょっとした仕草(しぐさ)や言葉をめぐる体験を、独自の画法で描いた風景とともに書き起こしてもらいます。(前回の記事は「タクシー運転、雨はつらいけど 心にしみる粋な所作」

人の世にたのしみ多し然(しか)れども酒なしにしてなにのたのしみ。こう詠んだ若山牧水ならずとも、秋の涼しい風が吹き、人恋しい夜は、人肌に温(ぬく)めた酒の香りも味も、心にしみ入ります。人々の生活には昼間の顔と夜の顔のふたつの顔があります。昼間、精を出して働いている姿も、夜、赤ちょうちんでお酒を飲みながら語っている姿も、人の営みです。今回はお酒にまつわる話です。

タクシー乗務には、いろいろな勤務時間シフトがあります。例えば、朝8時に出庫すると翌日の午前2時まで、午前10時に出勤すると午前4時まで、という具合です。残業はプラス2時間まで。50年ほど前、初めてタクシーの乗務を終えて車から降りた時には地面がゆれていました。

昼と夜の街角を、休憩を挟みながら長時間走り続け、お酒を飲んだ後のいろいろな状態の人をお乗せしてきました。酒癖という言葉があります。笑い癖、泣き癖、高揚し多弁になる人、愚痴をこぼす人、怒る人、からんでくる人、眠り込んでしまう人……。

「酔っぱらい」は面倒

正直言いますと、「酔っぱらい」ほど面倒なお客様はいません。もちろん、泥酔したお客様は断ることもできるのですが、車に揺られているうちに気持ちが悪くなる人もいるのです。冬でも窓を開けたり、少し走ってはお客様に声を掛けたり、細心の注意を払っても、もどされてしまうことがありました。そうなると営業は中止。会社に帰って車内をホースで水洗いすることになりますが、においはなかなか消えません。

酔って眠ってしまうお客様も困りものです。「起きてください」と声はかけますが、運転手はお客様の体に触るのは禁止されています。とくに女性の場合は手を焼きます。大きな声を掛けても起きないときは、仕方なく近くの交番に着けます。すると、それまでたぬき寝入りをしていたのか目を覚まし、こちらに悪態をついてきたり、運賃の支払いを渋ったりする方もいました。事ほどさように、お酒を飲んだお客様とのトラブルは本当に多いのです。

けれど、ときには正反対のケースもあります。お酒を飲んだ方と楽しく話したことや、ほほ笑ましい場面に出合ったこともありました。

東京都文京区にある小石川後楽園に近いホテルから、杉並区の「高円寺まで」と言って乗って来た3人連れのお客様がいました。お酒の匂いがして、とても柔和な雰囲気です。40代とみえる2人が年配の方を「先生」と呼んでおり、話の様子から高校の同窓会を終えて生徒が恩師を自宅まで送るところのようです。先生は少人数になるのを待っていたかのように、その日の欠席者の近況を2人に尋ねました。やさしく気遣うような聞き方で、答える生徒たちの口調からは先生への尊敬の念が伝わってきました。

酒席では大言壮語や余計なおしゃべりがつきものです。言いにくいこと、聞きにくいことも、つい口にしてしまいがちです。しかしその先生は、ほどほどに酔いながら、師のわきまえのようなものを忘れずにいたのではないでしょうか。到着すると、生徒たちもそろって車を降りました。「奥様にごあいさつしたい」と。これは良いお酒だなぁ、と感心して見送りました。

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