『罪の轍』の奥田英朗 作者は物語の黒子であるべき
注射好きで子どもじみた言動の精神科医が活躍するユーモア連作『空中ブランコ』で、2004年に直木賞を受賞した奥田英朗。同作のようにコミカルな作風も人気だが、社会的な問題や事件を緻密に描く重厚な書き手としても定評がある。『オリンピックの身代金』では09年に吉川英治文学賞を受賞。ここで描いた刑事たちが登場するのが、約3年ぶりの新刊『罪の轍(わだち)』だ。
東京オリンピックを翌年に控えた1963年に起きた「吉展ちゃん誘拐事件」をモチーフに犯人とその周辺人物、捜査員らに多視点で迫る。
本作は、2016年秋から今年の春まで文芸誌「小説新潮」で連載された。「『オリンピックの身代金』でこの時代を深く知ったことに加え、登場させた捜査チームが好きで。劇場型犯罪の走りとされる『吉展ちゃん誘拐事件』は、映画やドラマ、ノンフィクションも多くありますが、小説で書いた人はいない。ならば自分が書こうかと思いました」と着想を語る。
「ノンフィクションとの違いは、捜査の混乱ぶりや、世間の無責任ぶりを描写できる点にあります」と奥田は言う。作中では、逆探知ができない時代背景や、外野からの入電に警察が振り回される様子、現場の捜査本部の連携が図れずに犯す失態、東京から礼文まで電車や青函連絡船を乗り継いで何日もかける捜査などが緻密に描かれる。
「敬愛するドラマプロデューサーの故大山勝美さんの『テーマを描こうとするな。ディテールを描け』という言葉が常に頭にあります」と心情を吐露する。「電話が普及した当時と、ネットが普及した今は、匿名でモノが言えるようになった点は共通していますね。通信や交通といったテクノロジーの進化や普及は、新たな犯罪を生みます」
1963年当時、奥田は4歳。「オリンピックの記憶は全くない」と笑うが、時代への興味は高校生の頃から抱いていた。「戦後の復興期は日本の青春時代。憧れから、あの時代を描くのが今の僕にとってはライフワークのようなものになっています。書くと決めたわけではありませんが『三億円事件』などもあります」と目を光らせる。
「史実に基づいて小説を書くことには責任が伴いますが、モノを書く以上、自分に厳しくしないとダメだと思うわけですよ。『登場人物を裁かない』ということも戒めています。絶対の善も悪もなく、現実にはみんなその間で生きています。『こんなヤツいるな』という人物でいてほしい」
登場人物たちの心情描写はできるだけ削り、描かれる人間の心理分析は、読み手に委ねるようにしている。「小説に乗じて世間に何かを言おうという意図は持っていません。作者は物語の黒子であるべき」と静かだが強い口調で語る。
「和歌の"詠み人知らず"が理想。映画でも、名監督は意外と名前が知られていません。『ローマの休日』の監督名がさらりと出てくる人は少ないでしょう。そんな作家でありたいんです」
(日経エンタテインメント!10月号の記事を再構成 文/土田みき 写真/鈴木芳果)
[日経MJ2019年10月18日付]
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