米MITで学んだ仕事術 オタクは武器、ニッチで勝て
A.T.カーニー日本法人会長 梅澤高明氏
編集委員 小林明
「自分は反逆児だった」「音楽に未練がある」……。論客として活躍する一方、一橋大特任教授、DJなど多才な顔を併せ持つA.T.カーニー日本法人会長の梅澤高明さん(57)。東大法学部に在学中、プロのミュージシャンになるためにバンド活動に没頭するがあえなく挫折し、日産自動車に就職。イベント企画、営業に取り組むうちにマーケティングに目覚めて米国留学を決意する。
マサチューセッツ工科大学(MIT)でMBAを取得後、A.T.カーニーに移籍。コンサルティングに取り組みつつ、クールジャパン戦略や五輪後の東京の街づくり「NEXTOKYO」なども提唱する。「100歳まで現役で働きたい」という梅澤さんに英語やプレゼンテーションの勉強法、クールジャパン戦略の着想、人生観について聞いた。前回に続き、インタビューの後半をお届けする。
業績悪化で1年で福井に出向、座談会・試乗イベントなどを企画
――1986年に入社した日産自動車ではどんな仕事をしたんですか。
「1年目は宣伝部でショールームやモーターショーの企画に参加しました。ところが会社の業績悪化で若手に『地方でクルマを売れ』と号令がかかり、1年で福井県の販社に出向します。モーターショーの仕事を途中で離れたのは残念でしたが、福井で営業のほかキャンペーンやイベントの企画に積極的に取り組みました。文化人を集めて座談会を企画したり、東京からミス・フェアレディを連れてきて新車の試乗会をしたり……。それでマーケティングに目覚めたんです」
「2年半で本社の営業・人材開発部門に戻ると、専門書を読みあさり、若手とマーケティング講座を自主的に立ち上げます。講座を立ち上げた仲間には中途採用組や外国人も多かった。この頃から僕の意識には『外の人と積極的に交わって仕事をしよう』という行動原理が常にあります」
社内留学制度でMITへ、選抜試験1度目は英語力不足で落選
――1993年、社内留学制度でMITスローン経営大学院に行きます。
「1度目の社内選抜試験では見事に落ちてしまいました。原因は英語力の欠如。そこでTOEFLの点数を上げるために過去問の音声を書き起こす練習を繰り返す一方、英語面接の対策として外国人と話す訓練に取り組みます。外国人のダンサーやミュージシャンとつるんでクラブに一緒に遊びに行くんです。慣れない英会話も、遊びながら場数を踏むことでレベルは着実に上がりました」
「2度目の選抜試験で何とか合格。留学先としてはハーバードとスタンフォードに落ちますが、MIT、ノースウエスタン、コロンビアには受かり、イリノイ州にあるノースウエスタン(ケロッグ経営大学院)と迷った末、より都会で音楽も楽しめそうなボストンにあるMITを選びました」
MITは「みんなよくしゃべる」、でも定量分析では日本人の圧勝
――MITのMBAコースで学んだ感想は。
「口達者な学生が多いハーバードと比べると、MITは地味で実質重視といわれていますが、それにしても『みんな本当によくしゃべるな』と最初は驚きました。ただ話を聞いてみると『もっともらしいことを言っているが、中身は大してないな』という発言が結構多かった。むしろ定量分析などの科目では日本人学生の圧勝だったりする。米国の秀才たちは合理性を重んじ、アウトプットを出すための最短距離を常に考えます。一方、僕を含めた日本人はオタクで職人気質の人が多いので、重回帰分析など複雑な数学を駆使しながら、内容を徹底的に突き詰める。だから『プレゼンテーションのスキルでかなわなくても、中身では負けない』という自信が持てるようになりました」
称賛される米国企業、「バラ色なわけがない」と疑問
――日産の社費で留学したのに、なぜ米A.T.カーニーに移籍したんですか。
「米国企業についてもっと本格的に研究したくなったからです。当初はマーケティング知識を身に付けて日産に戻るつもりでしたが、米国企業をやたらに称賛する授業を聞いているうちに『そんなにバラ色なわけがないだろう』と疑問を抱くようになり、それを確かめたくなったんです。コンサルティング会社を選んだのは、あらゆる業種の企業に入ってゆくことができるから。日産に負担していただいた授業料などの費用はお返ししました」
――すごい競争倍率だったんでしょうね。
「やはりA.T.カーニーにはMBAの成績上位者が集まります。でも僕の場合、日産で実務を手がけた実績があったのが大きかった。当時、米自動車メーカーは業績が悪化し、日本車メーカーに学ぼうという姿勢が強かったんです。ほかのコンサルティング会社にも合格しますが、日米通商交渉の自動車分野で米政府のアドバイザーを務めていた人が自動車グループを率いていたので、A.T.カーニーを選びました。それで入社と同時にニューヨークで働き始めます」
採用で評価された日産での実績、「ニッチ分野でリーダー目指せ」
――バリバリの外資系企業でスムーズに働けましたか。
「米国育ちの同僚たちは議論の主導権を取るのが巧みなので、どうやって自分の存在感を発揮するかではかなり悩みました。試行錯誤の末、たどり着いたのが『ニッチな得意分野でリーダーを目指すこと』。日産やMITでの知見をいかし、小売業や消費財メーカーに提供するサービスで実績を上げるうちに、いつの間にか『マーケティング分析ならウメザワ』という評価が社内に広がっていた。マーケティングの定量分析という同僚が避けて通りがちな分野に自分の旗を立てることで生き残ったんです」
「米国企業を見て感じたのは、トップダウンの決断の速さとダイナミズム。多文化の環境で組織をまとめ、物事を動かすには、分析や意思決定のプロトコル(手順)が重要ということも学びました。ただミドルマネジメント以下の層を比べると、日本企業の方がレベルが高いと感じます」
結婚を機に日本へ帰国、「日本の役に立ちたい」との愛国心も
――ボストンやニューヨークでの音楽生活はいかがでしたか。
「ロックではなく、クラシックやジャズを聴いていました。ボストン交響楽団にはよく行きましたし、ニューヨークでは自宅に近いカーネギーホールの定期会員になり、月に何回かは足を運んでいました。ジャズクラブにも通いましたね。ニューヨークは音楽好きには天国でした」
――1999年に日本法人に転勤になります。自分から希望したんですか。
「米国で永住権を取得することも考えたんですが、日本人女性と結婚することになったので日本に帰国します。ちょうど日本経済がヨタヨタしていた時期で、日本のために何か役に立ちたいという気持ちもありました。僕はもともと反逆児で反体制気質ですが、海外に出て自分のアイデンティティーを意識するうちに、自然に愛国心のような気持ちが芽生えていました」
クールジャパンの着想、料亭「菊乃井」主人との会話が発端
――クールジャパン戦略はどういう経緯で着想したんですか。
「それまで国内企業の経営戦略や組織改革を支援していましたが、国家戦略について政府に働きかけたのはクールジャパンが最初です。きっかけは2008年に京都の料亭、菊乃井のご主人の村田吉弘さんにお会いし、日本料理界で後継者問題が深刻だという話を聞いたこと。社内の仲間に声をかけ、日本食文化を危機から救い、産業として世界で発展させるための方策をまとめて自民党に提案したんです。政権交代が起き、一時、提案は宙に浮きますが、その後、経済産業省幹部から改めて連絡をいただき、政府のクールジャパン戦略として動き出しました」
「国家戦略は成功すればインパクトは大きいですが、プレーヤーが多いし、政府がリーダーシップを発揮するのもなかなか難しい。成果につながる時間軸も長くなります。だからポテンシャルは大きいが、歩留まりとしてはあまり高くない。初年度はA.T.カーニーとして受託しますが、次年度以降はほぼ手弁当でお手伝いしています」
――2007年にA.T.カーニー日本法人社長、14年に会長に就任しました。
「06年に『次の社長は君だ』と前任者に言われ、『無理です。向いていません』と一度はお断りしたんです。人を管理するのが得意でないし、興味もなかったので……。だから社長時代は組織管理が得意な同僚になるべく任せるようにしていました。時間の3割を社長業、7割をコンサルティングに使うという感じです。ただ、リーマン危機や東日本大震災が起きても年平均で数%の規模拡大は持続できたので、社長としての合格点はもらえるかなとは思っています」
管理職には向いていない自分、4つのバンドで活動している感覚
――自分はどんな人間だと自己分析していますか。
「好きなこと、面白いことを常に追いかけてきました。将来のビジョンに向かって一直線でなく、道草だらけの人生だったと思います。音楽の道は諦めましたが、どこか未練があるのかもしれません。最近、DJとしてクラブやイベントで活動しているのはそのためでしょう」
「現在、取り組んでいるのが(1)A.T.カーニー、(2)クールジャパン戦略、(3)五輪後の東京の街づくりを考える『NEXTOKYO』や『ナイトタイムエコノミー』、(4)スタートアップの集積をつくる『CICJapan』――。個性の違う4つのバンドを掛け持ちしているような感覚です。今後は100歳まで現役で働きたいし、だいぶ先になりそうですが、ジャズ小屋のオヤジもやってみたい。そんな夢もひそかに温めています……」
(聞き手は編集委員 小林明)
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