校則も生徒会もない理由 麻布、「自由」への高校紛争麻布中学・高校(中) 教育ジャーナリスト・おおたとしまさ

学校史「麻布学園の100年」には紛争に関して200ページ以上の記述がある
学校史「麻布学園の100年」には紛争に関して200ページ以上の記述がある
知られざる進学校の素顔をお届けするこのシリーズ。麻布中学校・高等学校編2回目の今回は、校則も生徒会もない現在の姿に通じる歴史に注目する。政財界だけでなく学問や文学・芸能など幅広い分野で活躍する人材が巣立ってきた同校。私服通学や茶髪を認める自由な校風が確立したのは50年ほど前の学園紛争がきっかけだった。外から見た校風の底にある「自由の本質」に教育ジャーナリストのおおたとしまさ氏が迫った。

前川喜平氏や宮台真司氏もいた

麻布は「自由な学校」の代名詞的存在だ。自分たちは「革命」によって自由を勝ち取ったのだという意識が、先輩から後輩へと受け継がれる伝統がある。制服も校則もないが、それは形の上での自由であり、麻布の自由の本質ではない。

1969~1971年に大規模な学園紛争が勃発した。当時全国で高校紛争が起きていたが、校内に機動隊が突入し、その後38日間にもわたって学校が閉鎖されたのは全国でもまれに見るケースであり、特に義務教育課程であるはずの中学校が閉鎖されるのは全国でもほかに例を見ないことだった。

その混乱の中に、元文部科学省事務次官の前川喜平氏や社会学者の宮台真司氏らもいた。

1969年から紛争の火種はくすぶっていた。1970年、それを鎮火するために同窓会から送り込まれたのが山内一郎・校長代行だ。彼は強硬な姿勢で生徒や教員を押さえつけ、実質的な独裁者となった。さらに、自分に批判的な教員を解雇したり、知人の息子を裏口入学させたりと、学校を私物化した。校外施設を勝手に売却し、当時の金額で約2億5000万円もの業務上横領をしていたことものちにわかっている。

校長代行の登場は火に油を注いだ。反発したのは生徒たちだけではない。教員の一部も労働組合を結成し、山内校長代行に反発した。校内は荒れに荒れた。1971年10月に行われた文化祭で、緊張はピークに達する。

10月3日、当時「セクト」と呼ばれた組織と関係をもつ一部の過激な生徒が、竹やりをもって文化祭に乱入、事務所を占拠した。一般の生徒たちはそれを遠巻きに見るだけだったが、山内校長代行が機動隊を校内に入れたため、むしろ一般の生徒たちが激高し、機動隊を追い返した。

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