筑駒→東大法 大学5年で挫折したギタリストの夢  A.T.カーニー日本法人会長 梅澤高明氏編集委員 小林明

成績は得意と苦手がはっきり、持続力で後半に巻き返すジャン風

――学校での成績はどうでしたか。

「得意と苦手がはっきりした凸凹型でした。理科や数学は得意だけど、現代国語や美術は苦手。社会など暗記を伴う科目も好きではなかった。英語はまあまあ。でも塾で授業を先取りして勉強していたので、受験では苦労することもなく、安心して好き勝手にやっていました」

――マージャンの打ち方には人間性が出るそうですが、どんなジャン風でしたか。

「僕はなるべくポン、チー、カンとは鳴かずに面前のきれいな手で上がるのが好きでした。だからめっぽう強いわけではない。僕よりうまい友人も結構いました。でも、大学に入ってからは、序盤で負けていても、明け方にはなぜか逆転しているのが僕の勝ちパターン。うまい人でも疲れると腕が鈍ってくるでしょう。逆に僕は持続力で勝負し、後半に巻き返すタイプなんです」

東大法学部の授業に幻滅、落第ギリギリの超低空飛行

ベーシスト(Taka)として東大在学中に所属していたロックバンド「G―SCHMITT」(写真後列左端が梅澤さん)

――なぜ法学部に進んだんですか。

「中学では医者にあこがれていました。祖母を早くにガンで亡くしていたので……。でも高校の授業でカエルを解剖した際、自分には向いていないことが分かり、次に法律が面白そうだと考えて法学部に進みます。ところが東大の授業に出たら、すっかり幻滅してしまった。判例など昔のことを掘り返すばかりでまったく興味が持てない。もっと未来のことを考えたいのに……。それで法律の道は諦め、授業に出なくても試験さえ受ければ単位が取れる講座ばかりを選択しました。だから落第点ギリギリの超低空飛行。ゼミにも所属していないので卒論も書いていません。大学3年でオリジナルのバンド『G―SCHMITT(ゲー・シュミット)』を結成し、音楽活動に没頭する日々を送りました」

――「G―SCHMITT」とはどんなバンドですか。

「学外のメンバーと結成した、サブカル色の強い、オルタナティヴ・ロックの暗いバンドです。バンド名に深い意味はありません。単に語感と文字面が良かったから付けただけ。インディーズ系レーベルに所属し、年2回くらい全国ツアーを実施しながらEP盤やLP盤のレコードを計9枚出しました。プロを目指して本格的に活動していたんです。ただ、バンド活動だけでは食えないセミプロバンドでした」

「G―SCHMITT」の楽曲「Kの葬列」などを収録したCDのジャケット(布袋寅泰さんが所属した「AUTO―MOD」など複数バンドの楽曲を収録)

音楽を諦めさせたのは布袋寅泰とレベッカ、大学5年で日産に就職

「東大を中退して東京芸大を受験し、音楽理論や作曲を勉強しようかと思ったこともあります。塾の講師や模擬試験の問題作成、採点などアルバイト収入がかなりあったので、バンド活動を続けながら、大学に6年は在籍するつもりでいました。ただ、衝撃を受けたのは、ライブでご一緒することが多かった布袋寅泰さんやバンドの『レベッカ』があっと言う間に大ブレークしたこと。『あ、プロで食っていけるのはこういう人たちなんだ』と思い知らされました」

「『G―SCHMITT』もそれなりに質の高い楽曲を作り、個性的なバンドだという自負はありましたが、『レベッカ』は僕らとは違い、誰にでも分かりやすく良い曲を書いてヒットしていたし、布袋さんは圧倒的にギターがうまかった。とにかくステージに登場した時に発散するオーラが半端なかった。彼らのおかげで僕も納得し、潔く音楽をやめられました」

「もし、あのまま音楽活動を続けていても、結局、プロとしては食べていけなかったでしょうね」と振り返る

――それで民間企業に就職するわけですね。

「はい。予行演習のつもりで大学5年の時に就活したら、都銀と日産自動車から内定をいただいたんです。自分は銀行員には向いていないし、スポーツ車が好きで中古の『フェアレディZ』などに乗っていたので、『自分の好きなクルマを作れたら楽しいな』と思って日産に入社しました。もし、あのまま音楽活動を続けていても、結局、プロとしては食べていけなかったでしょうね。運が良ければレコード会社や音楽プロダクションに拾ってもらい、今ごろはディレクターかプロデューサーになっていたかもしれません」

(聞き手は編集委員 小林明)

後半は10月18日に公開予定。

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