マゼラン出帆から500年 世界一周はしていなかった

日経ナショナル ジオグラフィック社

1521年3月、遠征隊がフィリピンに到着。現地住民との関係は、果物を取引するなど平和的に始まったが、この版画に描かれるように大規模な戦いに変わっていった。4月27日、マゼランはマクタン島で殺された(GRANGER)

キリスト教への改宗を求め殺される

一カ月後、遠征隊はフィリピンにたどり着いた。すると出航前にマゼランが買った奴隷の男性、エンリケが現地の言葉を理解し、話すことができ、乗組員たちを驚かせた。この人物は、奴隷にされる前はこの地で育ったらしいと考えられ、その場合、最初に地球を一周したのはマゼランではなくエンリケの可能性がある。

マゼランはスペインに代わり、ただちにフィリピンの領有を主張。だが、バーグリーン氏が「不必要な戦争」と呼ぶ出来事に関わったことが、破滅のもとになった。「マゼランは自然の力に屈したわけではないのです」と、バーグリーン氏は言う。

マゼランはマクタン島の人々にキリスト教への改宗を求め、現地の族長だったフマボンとラプ・ラプの争いに巻き込まれた。1521年4月27日、マゼランはラプ・ラプと住民たちを攻撃した際、毒矢で殺された。

住民たちは「鉄製や竹製の槍で、一斉にマゼランに突進した」。遠征隊に同行したイタリア人の学者、アントニオ・ピガフェッタがこう書き残している。「我々の鏡、光、安らぎ、そして真の導き手を惨殺した」。船員たちはマゼランのなきがらを島に置いて行った。容赦ないリーダーを、彼らが実際どう感じていたのかを示す行動なのかもしれない。

マゼランの時代、クローブ、ナツメグ、メースなどの香辛料がヨーロッパで珍重される商品であり、モルッカ諸島原産の熱帯の木々が唯一の供給源だった(UNIVERSAL HISTORY ARCHIVE/UIG/BRIDGEMAN IMAGES)

「英雄」か、ただの「征服者」か

マゼランの死後、乗組員たちはただ1隻残った船で航海を続けた。バスク人のフアン・セバスティアン・エルカーノが船長を務めた。1522年9月、船はスペインに帰還。その途上、一行は未知の海に出会い、ヨーロッパが交易をおこなう新たなルートを拓き、現代のグローバリズムの土台を作った。6万マイルの船旅と、参加者の8割の死を経て、遠征隊は地球一周が可能だと証明し、商業の名のもとにヨーロッパが新世界を植民地化する時代の扉を開いた。

この旅は伝説と化し、1989年には、その名は金星にまで到達している。NASAが打ち上げた探査機「マゼラン」は、金星の画像を撮りながら、使命を終えて燃え尽きるまで5年にわたり旅を続けた。

マゼランの名を発見と関連付ける人もいる一方、その言葉を避ける人もいる。「私が教科書を書くなら、マゼランは1521年にフィリピンに到来したと記します」。フィリピン共和国国家歴史委員会の元委員長で、歴史家のアンベス・オカンポ氏はこう話す。「マゼランはフィリピン史の始まりと見なされるべきではありません。今も新しい世代のために書き直されるべき歴史上の出来事の1つです」

マゼラン一行が遭遇した住民たちにとって、探検家の到着は、征服、キリスト教化、植民地化による新時代を告げる前触れだった。マクタン島の支配者ラプ・ラプは軍勢を指揮してマゼランを殺した。探検家を倒したのは彼の功績だとされることが多い。その結果、彼はフィリピンの国民的英雄になったとオカンポ氏は指摘する。

ラプ・ラプ自身の偉業ではないのかもしれないが、彼はフィリピン人の抵抗と誇りの象徴として、広くたたえられている。歴史家たちは現在、マゼランのフィリピン到着から500周年を迎えるのを前に、より正確に実態を明らかにしようとしている。現在セブ島のその名もラプ・ラプ市には高さ3メートルのラプ・ラプ像が立っている。これに代わり、2021年に政府が挙行する500周年記念行事では、戦闘そのものと、人々が力を合わせて歴史的な探検家を倒した様子を伝えるモニュメントが建つ予定だ。

マゼランは英雄とされるべきか、それともオカンポ氏が呼ぶように、フィリピンにやってきた「最初の旅人」なのか――グアム、フィリピン、スペイン、ポルトガルがマゼランの世界一周への出帆五百周年を祝っても、マゼランの評価は依然として二分されている。

次ページでも、マゼランの航海と関係が深い図版を紹介しよう。彼が目指したものと、その時代の欧州の人々が見知らぬ世界にもったイメージの断片がわかるだろう。

ナショジオメルマガ
注目記事
ナショジオメルマガ