身勝手な言葉の暴力が許せません
脚本家、大石静さん
僕はかつて身勝手な言葉の暴力で傷つけられた経験があります。だから、たとえ矛先が僕でなくても「相手の気持ちを考えろ」と思ってしまうし、どんな些細(ささい)なことでも敏感に反応してしまいます。世の中の他人を思いやる気持ちが薄れていくのと同時に、僕の心が廃れていくように感じます。だれも傷つかない一日などないのでしょうか。(千葉県・10代・男性)
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私がここまで生きてきて確信することは、誰の人生もステキなことより苦しいことの方が多いということです。だからこそ思いやりを持つことが大切になる訳ですし、誰かと愛し合いたいと思ったりもする訳でしょう。その思いやりや他者への想像力が希薄になっていることを、あなたが嘆くのはよくわかります。
でも一方で、誰も傷つくことのないパラダイスは、この世にはあり得ないと、私は思います。
脚本家として、私はまあまあうまくいっている方だと思いますが、仕事は辛く、常に評価にさらされていますから、批判も聞こえてきます。書いた台本に対しても、プロデューサーや監督から厳しい意見を言われ、何度も直しを要求されます。
「だったら自分で書いてみろ!」と叫びたいときもありますし、書けなくなるほど傷つくこともあります。でも、お金をもらうためには、そのくらいのことに耐えて当然。人生はそもそも苛酷(かこく)なものなんだと思い直します。
人は誰しも傷つきながら、あるいは人が傷つくのを目の当たりにしながら、生きていくしかないんじゃないでしょうか。それがイヤなら、もし他者を傷つける発言をする人がいたら、勇気を持って、「それはないでしょう」と言ってみたらどうですか? 状況を嘆いているだけでは何も変わりません。そしてあなたは廃れるだけです。
人種差別に立ち向かった米国のマーティン・ルーサー・キング牧師は「絶望の山に分け入ってこそ、希望の石は切り出せる」というように訴えました。私はこの言葉を座右の銘としていますが、あなたはどう思いますか?
傷つくことに過剰に臆病になり、曖昧なやさしさが世の中を覆えば、人は議論をしなくなり、長いものに巻かれて生きることを美徳とするようになるでしょう。権力は思いのままに民衆を支配するでしょう。それは甚だ危険です。
今、どうすればあなたが救われるかと聞かれれば、あなたが強くなって、人を庇(かば)える人間になることしかありません。周りに期待するのではなく、自分が変わるしかないと、私は思います。
[NIKKEIプラス1 2019年10月19日付]
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