入院・交通事故… そのたびに、家族の結束が固くなる
アンテプリマ 荻野いづみさん
ファッションブランド「ANTEPRIMA(アンテプリマ)」を率いるクリエイティブ・ディレクターの荻野いづみさん(64)は20歳で大学を中退して結婚、米国で新生活を始めた。29歳で離婚し、その後7歳の息子と香港に。そこからは仕事に突き進み、イタリアブランド「PRADA(プラダ)」の人気に火を付け、今は「ANTEPRIMA」のクリエイティブ・ディレクターとしてミラノコレクションに参加している。一人息子とは思春期に確執があったものの、長い時間をかけて乗り越え、今は日本帰国時に息子家族と同居する。彼女はこう話す。「何かが起こるたび家族の結束は固くなる」
3歳までは子育て一筋、ずっと話しかける
日本に戻って24歳で長男を出産すると、3歳までは育児一筋でした。赤ちゃんは常に持って離さないモノってありますよね。毛布とかぬいぐるみとか。息子にとっては私でした。24時間いつも一緒。育児書をたくさん読み、「とにかく話す」を心がけました。
車に乗っても「信号が赤です。止まります。青になりました。動きます」という具合です。まだ話せない彼にずっと話しかけ、家の中は張り紙だらけ。自分の名前とかアルファベット表とか、トイレにも張っていました。3歳までは勉強も遊びとして捉え、危険なこと以外は叱る必要はまったくないと本に書いてあったので、何でも言葉で説明しました。
これからはグローバルな時代になると感じていたことや、夫が英国と日本のクオーターだったこともあって、息子を1歳半でインターナショナルスクールに入れました。私は受験して私立の学校に進学したものの、英会話力不足を感じましたので。振り返るとおかしいくらいに子育てに専念しました。それが原因で離婚したのかもしれないですね。
離婚するとなれば、自立しなければいけません。息子とオーストラリアかどこか海外で暮らそうかと考えたときに、縁あって「香港で仕事をやらないか」と誘われたのです。ホテル「ザ・ペニンシュラ香港」内にプラダを開店させました。
当時はファッションも、経営も素人でした。プラダは本拠地イタリアのミラノに1店あるだけのファミリー企業。制服もなければマニュアルもありません。仕方がないので香港に店を構えていたルイ・ヴィトンやエトロ、サルヴァトーレ・フェラガモといった高級ブランドの社長を訪ね、運営のノウハウを教えてもらいました。時は1980年代。日本はバブル景気に沸いており、香港に買い物に来る旅行者がたくさんいました。そこで、1万円札が入る財布を作ってなど、日本人が手を伸ばしたくなる商品を開発してほしいと本国にお願いしました。狙いは当たり、店は1年目から黒字でしたね。
1993年には、アンテプリマというブランドを立ち上げました。ブランド名はイタリア語で「デビュー前」という意味です。38歳だった自分自身を励ますため、「女性にとってデビューに年齢は関係がない」という思いを込めたのです。
94年にプラダとの店舗運営に関する契約が終了すると、アンテプリマに専念しました。ルイ・ヴィトンといえばデザインの「モノグラム」、プラダなら「ナイロンバッグ」といった、誰もが知っている・買いたくなるヒット商品を作れないだろうか。あれこれ考えていたとき、イタリア・ボローニャの素材展で見つけたのが眼鏡のストラップとして売っていた素材でした。これを編んだのが、累計100万個を販売した「ワイヤーバッグ」です。98年からはミラノコレクションにも参加し始めました。
日本では子育て一筋でしたが、香港では仕事に打ち込みました。現地の社交界は慈善パーティーなどが頻繁にあり、夜に出掛ける機会も多くなりました。子どもと過ごす時間は極端に減りました。家事や子どもの世話はフィリピン出身で住み込みのメイドさんにお任せ。息子は英語ですぐにコミュニケーションが取れました。勉強もがんばっていましたし、何も問題はないと思っていました。でも、息子は急激な環境の変化と孤独に苦しんでいたのです。
反抗期には爆発した方がいい
香港に渡って1年ほどで前の夫に息子を預けましたが、うまくいきません。日本で私の両親と暮らすことになりました。そして15歳で米国・ボストンに留学します。あるとき、ちょうどイタリア滞在中に電話が鳴りました。息子が入院したというのです。「3カ月はホームシックになるから、あまり連絡しないように」。そう言われて、電話を控えていました。それがいけなかったのかもしれません。息子は私に捨てられたと思ったようです。自分のルーツにも苦しんだようでした。すでにこの頃、今の夫と再婚していました。義理の娘もボストンに留学中。電話で娘に「あの子はまだ15歳なのよ!」と叱られ、慌てて飛んでいきました。
日本に連れて帰っても、交通事故にあったり病気になったり。生きた心地がしませんでした。子どもは悪さをすることで親に自分の存在を知らせようとすると言いますが、「放っておくな!」と私に訴えているようでした。病院の先生いわく「小さい頃から親の言うとおりに生きて、たまっていたものが爆発したのでしょう」。カウンセリングに通って子どもと向き合いましたが、すぐに解決するものではありませんでした。
息子は17歳になると、単身英国に渡っていきました。さらにフランスへ。15~18歳ごろの子育てが一番つらかった。息子が死んでしまうのではないかと毎日、不安で不安で。といって、何ができるわけでもありません。とにかく生きてさえいてくれればいいと願っていました。
フランスにいる4年間は一度も日本に帰らず独学で芸術やコンピューターを勉強していました。彼なりにやりたいことを見つけていたのでしょう。さらにマレーシアでコンピューターを学び、デジタルの世界に入りました。この間、パリで何度か食事をするのが精いっぱいでした。
41歳になった息子に「俺のこと育てた?」と聞かれるほど私の子育てはお粗末でしたが、3歳までは心身をなげうって、しかも楽しんで子育てをしたという自信があります。だから、今までやってこられたのだと思います。「あの子なら大丈夫」。いつもそう思えました。いろいろな問題がありましたが、そのたびに家族の結束は固くなったように思います。
スタッフから子どものことで相談されることがあります。そんなときは「時々親に反抗して、小爆発を起こしている方が安心よ」と言います。米国に渡った息子が爆発したとき、精神科医から「ギリギリこの年齢で爆発して良かった」といわれました。そこから彼は自分の人生を歩き始めたのです。
現在、日本には息子夫婦と3人の孫、私の父と4世代で暮らす家があります。3人の孫はインターナショナルスクールに通い、今年の夏はそれぞれ海外のサマースクールに出かけていました。自分なりの家族像をしっかり持つ息子をみると、いったいどこで学んだんだろうと感心してしまいます。私が心配した10代の頃とは打って変わり、すっかり落ち着いた姿を前にすると、子どもは親だけが育てるのではないのだと痛感します。息子は家族や友人たちに助けられ、見守られて育ったのでしょう。
(聞き手は女性面編集長 中村奈都子)
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