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松本晃氏は、子会社への出向を命じられ、その意義を考えたという

松本晃氏は、子会社への出向を命じられ、その意義を考えたという

プロ経営者の松本晃氏は、伊藤忠商事の辣腕営業マンとして出世の階段を駆け上がっていた39歳のとき、突然、子会社への出向を命じられました。しかも出向先は多額の不良債権を抱え、本社も半分さじを投げていた青息吐息の医療関連の子会社だったのです。出向は大企業に勤めるサラリーマンの宿命のようなものですが、そんな子会社へ行かされるのを松本氏はどう受け止めたのでしょうか。

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米国で売りまくった伊藤忠時代

伊藤忠に入社して15年目の1986年の秋でした。当時、僕は東京本社の農業機械課という部署で、日本の農業機器を米国など海外に売る仕事をしていました。トラクターでも何でも、日本の農業機械は性能が良くてしかも小回りがきくので、非常によく売れました。僕たちはウイークエンドファーマー(週末農家)と呼んでいましたけど、米国では週末に家庭菜園をする人が多く、そういう人たちに特に人気でした。とにかく米国で売りまくり、会社には相当貢献していたと思います。

そんなある日、農業機械課が属していた事業本部の本部長が僕のところに来て、「松ちゃん、もうそろそろええやろ」と言ったんです。出向の打診でした。話を聞くと、出向先は伊藤忠の100%子会社で、医療関連事業を手掛ける「センチュリーメディカル」という会社でした。

日本では70年代後半から80年代にかけて、病院建設ブームが起きていました。人口がどんどん増え、いずれ病院が足りなくなるのではないかといわれていた時代です。商社もそれに乗っかり、商社金融の機能を利用して病院の建設を積極的に後押ししました。新たに開業する病院の建設から機器・材料までをパッケージで売り込むというビジネスモデルをつくったんです。センチュリーメディカルは、そういう伊藤忠の医療ビジネスの最前線を任されていたわけです。

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