サッカー指導者・佐々木則夫さん 父に倣い部下かばう
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回はサッカー指導者の佐々木則夫さんだ。
――出身は山形ですね。
「小学2年まで内陸部の尾花沢市で育ちました。父親は農家の長男でコメやスイカを作っていました。よく田んぼや畑で遊んだものです。のどかな風景の中で体は鍛えられ、足だけは速かったですね」
――上京したのはなぜですか。
「農業ができない冬、父は東京に土木関係の出稼ぎに行っていました。東京五輪後の高度成長期です。道路整備などの工事がたくさんあって、建設の仕事がおもしろくなったんでしょう。農業は親戚に任せ、小さな土木の下請け会社をつくり、母親と僕も東京で暮らすことになりました」
「家族3人で建設従業員用の飯場で暮らしていました。大学の寮に入るまで、10カ所ぐらいの飯場を転々としながら小中高に通いました。母が従業員のご飯や生活の面倒をみて、父は現場を束ねる役回りです。仕事ぶりは小さい頃から近くで見ていました」
――どんなお父さんですか。
「現場での立ち振る舞いは子供心に格好いいと思いました。例えば水道管の破裂で応急処置が必要なとき、父は率先して泥だらけで現場に駆けつけ、部下が失敗しても自分が盾になって親会社に対応していました。偉ぶらず態度で示す人でした。そんな親父の下で、僕も中学生ぐらいから残土を一輪車で運んだり、道具を届けたりして仕事を手伝いました」
――なでしこジャパンの監督など、指導者としてお父さんの影響はありますか。
「ありますね。2012年ロンドン五輪の1次リーグ第3戦、南アフリカ戦の時です。2位で決勝トーナメントに進めば、同じ会場で戦える。だけど南アに勝って1位通過すると、遠くの会場に移動しなければならない。そこで、引き分けで試合を終えるように指示を出したんです」
「試合後の監督インタビューで『すみません。僕が引き分け狙いを指示しました』と白状しました。多くの批判にさらされました。でも、僕がそう言わないと選手たちにウソをつかせることになる。その時にね、父が建設現場で部下たちをかばっていた光景が浮かんだ。『ああ、俺も親父と同じことができるようになった』と思いました」
――家庭でのお父さんは。
「これはもう反面教師です。まったく家庭サービスをしない人でした。家族旅行は一度もなく、父との写真は、たった1回見に来てくれたインターハイ優勝の時の1枚だけ。だから女房にもひとり娘にも優しく接して、家族サービスしようと心がけました」
「娘とは率直に話せる間柄で、ありがたいです。娘にも選手たちにも何でも言いやすい空気をつくっているつもりです。そういう自由な雰囲気づくりは、父の影響があるかもしれないですね」
[日本経済新聞夕刊2019年9月24日付]
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