タクシー運転、雨はつらいけど 心にしみる粋な所作鉛筆画家 安住孝史氏

そんな雨の日でも、うれしい気分になるときがあります。たいていのお客様は天気に関係なく足からご乗車になるのですが、その50、60代の着物姿の女性は違いました。傘をさしたまま、先にシートの端に腰を下ろし、後からすっと持ち上げるように足を車内に入れます。そして傘を閉じながら、外に向かってしずくを少しはらいました。運転手の私でも、上手な乗り方だなあと感心したのを覚えています。この方法だとご本人だけでなく、車内もあまり濡れないのです。

雨ガッパを着た女性が、さっとハンカチを敷いて座られたこともありましたが、こういう所作はなんとも気持ちのいいものです。傘のしずくが後部座席の床にたまり、雨ガッパなどでシートにかぶせたシーツがひどく濡れるのが雨の日の宿命ですから、余計にありがたく思ったものです。

褒め言葉の向こう側

雨の日のふるまいには人柄がにじみます。東京都大田区にある「池上本門寺まで」と言って港区の三田から乗ってこられたお客様には、粋でこまやかな心遣いを感じました。タクシーが品川を過ぎ、青物横丁の近くまで来たときにふと「運転が丁寧」と褒めてくださったのです。こちらは普段通りのつもりでしたが、雨天は運転に気を使うことをよくご存じだからこそ、わざわざかけていただけた言葉だったように思います。そのお客様は池上本門寺の脇寺のご住職で、楽しい会話をしているうちにお寺の門前に着きました。雨はまだ降っていましたが、そのご住職は「大丈夫」と言って、人を呼んだりせずに早足で門の中に消えました。いい情景だなあ、と思ったのを覚えています。雨がくれた心地よいひとときでした。

タクシーの小さな箱の中の営みが、人間への「いとおしみ」を深めさせたという(画・安住孝史氏)

雨から脱線してしまいますが、お客様に褒めていただいた話を、もうひとつ。30年余り前になりますが、東京駅の丸の内北口から「靖国神社」と言って乗ってきた年配の男性がいました。そのお客様は、車が走り出して4、5分で突然に「運転がうまい」とおっしゃいました。「ありがとうございます」と答えましたが、まだ走った距離が短いので「わかりますか」とお聞きしてみると、「走り出したらすぐにわかる。戦闘機乗りになれる」と言われました。そしてかつて自分は戦闘機乗りで、きょうは戦友に会いに行くという話をされました。「仲間はみんな死んでしまって、自分だけ生き残った。人生なんて運だ」と。

お客様はタクシーを降りると、大鳥居の向こうに少し頭を下げました。僕はしばらく停車して、お客様の様子をなんとなく目で追いながら、どうして褒めてくれたのだろうと考えました。人は褒めてもいい何かに出合ったからといって、必ず褒めるわけではないからです。やはり「運転」が上手だった懐かしい人々を思ったに違いないのです。たったひとり、肩を落として歩く後ろ姿が忘れられません。

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安住孝史
1937年(昭和12年)東京生まれ。画家を志し、大学の建築科を中退。70年に初個展。消しゴムを使わない独自の技法で鉛筆画を描き続ける。タクシー運転手は通算20年余り務め、2016年に運転免許を返納した。児童を含めた芸術活動を支援する悠美会国際美術展(東京・中央)の理事も務める。画文集に「東京 夜の町角」(河出書房新社)、「東京・昭和のおもかげ」(日貿出版社)など。

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