映画「蜜蜂と遠雷」 栄伝亜夜のピアノを弾いたのは…
国際ピアノコンクールを描いた石川慶監督の映画「蜜蜂と遠雷」が10月に公開される。原作は直木賞と本屋大賞を受賞した恩田陸氏の小説。演奏シーンをふんだんに盛り込んだ映画だが、実際は世界クラスのピアニストが弾いている。主要キャラクター、栄伝亜夜の演奏を担当した河村尚子氏に音楽と映画、コンクールについて聞いた。
受賞歴多数のピアニストが映画で演奏
映画ではコンクールで競う4人の演奏をプロのピアニスト4人がそれぞれ担当した。妻子持ちの社会人ピアニスト高島明石(役は松坂桃李氏)に福間洸太朗氏。日系ペルー人の母とフランス人の父を持つ設定のマサル・カルロス・レヴィ・アナトール(森崎ウィン氏)には、日本人の父とハンガリー人の母を持つ金子三勇士氏。最年少の風間塵(鈴鹿央士氏)には藤田真央氏。そして栄伝亜夜(松岡茉優氏)にはドイツ在住の河村氏が選ばれた。俳優の演技と演奏家の音楽が一体となって登場人物の個性が浮き彫りになる。
――映画の演奏を担当した経緯は。
「恩田さんはクラシック音楽が大好きで、私のコンサートに来てくれた。機会を作り、コンクールについて私の経験談や思いを話した。『蜜蜂と遠雷』に出てくる曲を読者に知ってもらいたいとのことで、CD(2017年発売の『蜜蜂と遠雷』ピアノ全集、発売元:ソニー・ミュージックレーベルズ)に私の演奏するショパンの『バラード第1番』を入れてくれた。そして小説が映画化される際に栄伝亜夜の演奏を頼まれた」
――プロのピアニストから見て「蜜蜂と遠雷」が描くコンクールの様子はどうか。
「一人ひとりの個性や心理がよく描かれている。恩田さんはピアノコンクールを何度も観察したので、どう運営されるかもリアルに描いている。才能のあるピアニスト4人に視点が絞られ、並みのピアニストの様子があまりうかがえないのは現実と異なる。実際はいろんなレベルのピアニストが出場するが、小説はムラのない視点だ」
映画には登場人物の個性に合ったピアニストが起用された。「あなたは風間塵そのものと石川監督に言われた」と藤田氏はヤマハ銀座ビル(東京・中央)で8月10日に開かれたレクチャーコンサートで語った。20歳の藤田氏は6月、チャイコフスキー国際コンクールで2位に輝いたばかり。故・中村紘子氏が最後に審査員を務めた浜松国際ピアノアカデミーコンクールで1位になった経歴もあり、亡き著名ピアニストに才能を見いだされた謎の少年・風間塵役の演奏に適任だ。一方、河村氏はスイスのクララ・ハスキル国際ピアノコンクール優勝、難関の独ミュンヘン国際コンクール2位をはじめ欧州で受賞歴多数。国内外のジュニアコンクールを制覇した「元天才少女」栄伝亜夜の演奏を担うにふさわしいといえる。
最高の演奏を披露することのプレッシャー
――栄伝亜夜を意識して演奏したか。
「私の場合それはなかった。でも原作を読んで彼女に共感するところもあった。彼女が自然な音楽家だということ。曲をたくさん分析し頭だけで弾くよりは、自分が感じる音楽を自然に演奏するピアニスト。そこが自分に共通する部分だ」
――河村さんはコンクール出場でどんな葛藤があったか。
「ほかの人と比べられるので、磨き上げられた最高の演奏を披露しなければならない。プレッシャーから緊張し、耐えられなくなる。そういう葛藤や失敗は何回も体験した。自分の音楽に集中し、幸せな時間を味わえたときにいい演奏ができた」
――コンクール出場で役立ったことは。
「準備、練習、体の管理に集中し、自分を強くしていくステップだった。レパートリーを広げるステップでもあり、出会いの場でもある。ほかの出場者と会話し、一緒に食事し、仲良くなって交流することが大事。コンクールにはプロのピアニストとして求められるエッセンスが詰まっている。プロになる一歩手前で自分を公開できる場だ」
自分の音楽を弾く意志を貫く精神の戦い
――コンクールは必要か。
「コンクールなしで成功したピアニストはいるし、コンクールを通して成功したピアニストもいる。どちらも有り。だからコンクールは必要。でもコンクールだけではない。ベルギーのエリザベート王妃国際音楽コンクールに出場したときはライブ中継もあり、古代ローマのコロセウムに入ったグラディエータ-(剣闘士)みたいな気分だった。しかし創造性や芸術性は競争からは出てこない。自分の個性や生まれ育った環境が音楽に響いてくる。競争心が強いから勝つわけではない」
――コンクールを勝ち抜くタイプは。
「戦いの思いをあまり込めず、自分の音楽を弾く意志を貫ける人が勝つ。精神的な戦いだ。神経質な人よりも、どっしりと構えられる人が成功する。オールマイティーで自分しか頭にない人向けのイベント。いろんなことに気を配って気が散ると演奏に集中できない。どんな楽器を相手にしても、どんなホールでも弾けないといけない」
最近のピアノコンクールはインターネット配信によって世界中で視聴され話題を呼ぶ。クラシック音楽を題材にした映画やドラマも多い。2006年のテレビドラマ「のだめカンタービレ」のヒット以降もアニメ「ピアノの森」、映画「羊と鋼の森」をはじめ、クラシックを扱った作品が人気だ。「蜜蜂と遠雷」もこうした流れをくんでいる。
――クラシックを題材にした映画やドラマをどう思うか。
「クラシックについて多くの人に幅広く知ってもらう機会ができるのでありがたい。堅苦しい音楽と感じている人も気軽に聴ける。『蜜蜂と遠雷』では栄伝亜夜が葛藤したり、精神的に落ちたり、起伏も感じられるので、演奏家がいつも輝いているわけでなく、苦労や失敗があって成功もあることを分かってもらえそうだ」
映画が生んだ藤倉大氏の新曲「春と修羅」
10月4日の映画公開を前に、9月4日にはCD「映画『蜜蜂と遠雷』~河村尚子plays栄伝亜夜」(発売元:ソニー・ミュージックレーベルズ)が出る。映画の使用曲を収めた。
――演奏・録音した曲で印象深いのは。
「(英国在住の)藤倉大さんがこの映画のために作曲した『春と修羅』。録音の1週間前に楽譜をもらったので猛勉強して弾いた。多彩な曲。シンプルなメロディーに始まって、両手で異なったリズムを弾く部分につながる。その部分が小動物的な雰囲気を醸し出し、自然を表しているように思った。藤倉さんは登場人物4人のキャラクターそれぞれに異なるカデンツァ(即興的部分)を作曲した。恩田さんが原作に書いた具体的説明に合う音楽だ。亜夜の場合はどっしりとして雄大な、高原が思い浮かぶような音楽。ジャズ風の和声も使われ、難曲ながら色彩豊かで、弾いて楽しかった」
「蜜蜂と遠雷」のモデルといわれる3年に1度の浜松国際ピアノコンクール(浜松市)。2018年第10回大会で審査委員長を務めたピアニストの小川典子氏は意外にも「優勝する必要はない」と言っていた。「得意な演奏を伸ばし、自分が一番輝く姿を見せてほしい」と。コンクールでは順位が付く。小説でも映画でも順位付けなしにコンクールは終わらない。
コンクールの順位よりも大事なこと
――河村さんはクララ・ハスキル国際ピアノコンクールの審査員も務める。審査は難しいか。
「難しい。人間だから正確に測れないと思う。ドイツ語で『aus dem Bauch(アオス・デム・バオホ)』という言い方がある。『腹から、自分の感覚から』という意味だが、腹から出る好き嫌いは誰にもある。この演奏を尊敬するが、心からは賛成できないとか。加減のとり方は人によって違う。私は音楽家、ピアニスト、人間といった全体の調和をとって評価したい」
――栄伝亜夜の順位をどう思うか。
「亜夜がなぜ、と思う人もいるかもしれない。でも順位が出るのはいいことだ。1位だから成功するとは限らない。2位で成功した人たちがたくさんいるし、3位だった人がものすごく成功したケースもある。順位はそのときに大事かもしれないが、その順位から何をするか、自分の次の道をどう開拓していくかのほうがもっと大事だ」
――自身のピアニストとしての抱負は。
「ドイツに住んで欧州で演奏活動していると、なぜ日本人の曲をもっと演奏しないのかと問われる。今後は自らのアイデンティティーである日本のイメージを大切にし、日本を代表する作曲家の作品をもっと紹介していきたい。4月には山田和樹さんの指揮でNHK交響楽団と矢代秋雄さん(1929~76年)の『ピアノ協奏曲』を演奏した。日本人作曲家がどれだけ素晴らしい作品を残しているか、海外の人々にも知ってもらいたい」
(聞き手は池上輝彦)
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